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自主映画で1億稼ぐ方法

自主映画で1億稼ぐ方法 第5回 『アイツ等ノ会食ヲ、銀河は待っている』神奈川独立映画宣言

 ジャック&ベティで映画を見た帰り、よく見るスタッフさんに声をかけられた。「当館で自主映画の上映をやられてますよね? 今度私の映画も上映するんです」
 鈴木順也さんという監督の撮った映画が本作『アイツ等ノ会食ヲ、銀河は待っている』である。
 さて、あらすじを書こうと思ったが難しくて書けなかった。公式のあらすじを引用したい。

 社会人の“脚本”は単調な毎日に嫌気がさしつつも、周囲の「普通」や「当たり前」に従って生きてきた。結果として社会に出た“脚本”のもとに残ったのは、「何者でもない自分」であった。“脚本”は限界を迎え、本能で自らの人生、ありのままの感情、考えを綴るが、世の中に放つことはなかった。そして綴り続けたある日アイツ等に出会い、“脚本”は“映画”と対峙する。

 画一的な現代社会において、皆どこかで「自分である必要性」を探し求めている。たった1人で自己構築することは困難であり、他者との関係によって自らが何者なのか、どのように生きるべきか、本作を通じて示していく。本作の制作や公開を通して、自分を諦めそうになっている人、社会の違和感に押し潰されそうになっている人に、一歩踏み出す勇気と心強さを与えたい。

 いきなりニッチな感想になるが、舞台が横浜だけどみなとみらいとかじゃないキラキラしてないロケーション、そして登場人物たちの雰囲気がいい意味でリアルというか、いかにも自主映画という生活感のあるリアルさがあって良かった。特にラーメン食べた後にめちゃくちゃ住宅地なところで会話してるシーンなんて最高だった。『銀平町シネマブルース』という城定秀夫監督の商業映画があったが、本編開始直後に何の変哲もない殺風景な川隣の公園で撮ってて、その自主映画っぽいロケーションに心掴まれたのを思い出した。
 また、物語の構造も一つ一つのショットもありふれたものにしない!という熱量を感じた。日常の鬱々とした演出は心に迫るものがあった。

 しかし正直に言うと、そこまで良くできた映画ではないかもしれない。演技未経験の役者の芝居は、芝居というには足りず、演技経験のある役者の芝居は逆にオーバーすぎる。
 脚本はとにかく分かりづらい。時系列は複雑に入り混じり、いつが過去で、どの未来に向かっているのか分からない。鬱屈とした日常パートは写実的なのに対して、極度にデフォルメされた撮影会議パートは舞台やアニメのようなセリフが交わされるため、非常に好き嫌いが分かれそうだ。そしてそれが現実なのか『インサイド・ヘッド』的な抽象世界なのかが分からない。
 しかも日常パートも段々抽象的になっていく。チャーリー・カウフマンのようなシュルレアリスム的構造の物語なのだが、その物語の迷宮は氏の作品のような摩訶不思議の面白さに溢れたものではない。見た者はこの物語がどこからきてどこに向かっているのか分からなくなり、物語上の時間も現実の体感時間もグルグルバット状態で苦痛を伴う。それは本当の迷宮なのである。

 でもそれは狙いなのかもしれない。原案・主演のかお氏や監督の苦しみそのものだったのかもしれない。
 自主映画にはこれがあるのだ。
 作り手の魂の叫び、それも純度の高いものがダイレクトに浴びせられる。これはプロのスタッフも有名な役者もいない自主映画が、大企業の集って作る大資本映画に太刀打ちできる唯一で最大の特徴である。我が生涯の一発を喰らえ!という精神だ。

 シネコンや大手配信で見られる映画は、今や面白くないものはほとんどない。それなりに良くできたものがほとんどだ。少し前までの映画業界では考えられない状況である。
 でもぶっちゃけ、もはや何を見ても何も思わなくなっていないだろうか。それなりに面白いけれど、心の底から感動することはほとんどない。そんな無味乾燥な作品たちに飽きたら、ぜひ自主映画シーンを覗いてほしい。
 あまりの荒々しさに最初は慣れないかもしれないが、しっかり見ていれば、自主映画でしか得られない面白さを発見するはずだ。映画なんていう手間もお金もかかるものをわざわざ自分らで作るというのは狂気である。そこまでして作られた映画に込められた情熱を感じて感動するのもいいし、単純に大資本が絡んでいない分好き勝手な映画が作れるのでその自由さも楽しい。
 あとは学生の作った映画などは、それそのものが丸々青春のドキュメントであり、大人が(実は大人に向けて)作った青春映画よりもよっぽど青春映画だったりする。
 とにかく次々と新しい作品の公開や配信が続く昨今、いつの間にかタスクをこなすように消費してるだけだと感じている映画ファンには、月に一度でいいからぜひ自主映画にチャレンジしてみてほしい。

 さて本作の話に戻るが、本作の主人公は社会人として味気ない生活を送る。毎日が同じような日々の繰り返しの中で、何かを繋ぎ止めるように、苦しみながら脚本を書き続ける。監督曰く、無味乾燥な人生の中で、映画制作やバンドなどの表現活動だけが自分の存在の証明だったという。
 そして自主映画の発表の場として大きいのがミニシアターである。上映前の挨拶でシネマ・ジャック&ベティの支配人は、表現者にとって表現したものを発表できる場でありたいとおっしゃっていた。

 しかし今じゃすっかり忘れられた感もあるが、ほんのちょっと前、パンデミックに際して映画館という場は政府により不要不急と見なされてしまった。ましてや自主映画なんてその最たるものに当たるのだろう。
 自主映画の受け皿となっている独立系のミニシアターは何の後ろ盾もなく、コロナ禍をなんとか生き延びた全国の劇場は今でも苦しい状況が続いている。その為、自主映画というのは、実は近い将来発表の場を失ってしまう危機に瀕しているのである。
 この場所を自主映画というシーンからも何とか盛り上げられないか。とりわけ、自分が生まれ育ち今も住んでいる神奈川という地の劇場。東京に行かずともミニシアター系の映画を上映し、自主映画の上映もやってくれる映画館たちを今以上に応援できないか。私は毎日そのことをずっと考えている。
 でもウダウダ考えているだけでは何も始まらないので、とりあえず色々やってみようと思う。例えば政治家は衆議院選挙に当選し任期を満了するまで4年のうちに色々頑張る訳だから、私も2025年から4年間、色々やってみようと思う。だから皆さんもぜひ応援していただけないだろうか。皆の力で映画業界の風向きを変えようではないか。

 ここで一つ提案なのだが、自主映画という呼び方を改めたらどうか。自主映画と聞いて、良いイメージを持つ人はあまりいないと思う。作っている自分たちでも、胸を張って言う言葉というより、謙遜や蔑称が多少混じったニュアンスで使ってしまっているような気がする。
 映画好きに自主映画の紹介をすると「なんだ自主か・・・」という顔をされるし、今話題の時代劇映画も「自主映画ながら〜」という文脈で語られる。面白くない商業映画は「自主映画レベル」などと言われたりする。
 自主映画はインディペンデント映画とも言うが、このインディペンデント、インディーズという言葉は独立という意味を持っている。だから、資本的に独立した映画、何者にも縛られない自由な映画として「独立映画」と呼んでいきたい。私たちは、独立映画だ!
 書いていて、呼び方の問題じゃない事に気がついたが、まぁそれはいいじゃない。

 ところで『アイツ等ノ会食ヲ、銀河は待っている』というタイトルはどういう意味なのだろうか。監督曰く、最初は語感で付けたタイトルだったそうだが、後付けで意味が見えてきたという。「自分の自主映画などというこの星で誰一人として作ってくれるのを待っていないものも、果てしない銀河のどこかだったらワンチャン誰か待ってくれているかもしれない」

 俺は、きっといるはずだと思う。信じてる。少なくとも俺は、皆の映画を待っている。

 

億万長者への道・その5

「どんな独立映画でも、少なくとも俺は出来るのを待ってる」

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しがない映画ファンです。たまに自主映画作ったり、上映イベントをやったりしてます。