【きまぐれレポート】レポ4 現役先生による『小学校 ~それは小さな社会~』の鑑賞レポート
今ひそかに話題となっているドキュメンタリー映画『小学校 ~それは小さな社会~』。日本の公立小学校を舞台にしたものですが、そういえば知人に先生がいたので、先生の目にはこの映画がどう見えるんだろうと気になって見てもらいました。今回はその仮名Aさんによる鑑賞レポートをお送りします。
【はじめに】
「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている」
本作の宣伝webサイトに書かれている文句は上記となっている。これを好意的に捉えるか、否定的に捉えるか。胸を張ってこの宣伝文句を謳うことのできる日本人は決して多くはないのではないだろうか。少なくとも私にはとてもできない。
だが、本作は小学校で行われる教育こそが、日本人特有とされる美徳──責任感、勤勉さ──といったものを培うという意図で描かれる。山崎エマ監督は自身の強みである上記を、日本の公立小学校で育んだと話している。外部──国外の視点によって日本の小学校教育を再評価するドキュメンタリーを通し、日本の公立小学校およびその教育、その教員について考える、これが日本の小学校で教育を受けた人間の取ることのできる態度ではないかと考えた。
だが、付け加えるならば、山崎監督が受けた教育の指導要領および教員から生徒への接し方は、このドキュメンタリーの時期とは変わっている。本作で取り入れられているのは、劇中でも触れられた『主体的な学び』を重視する平成29年度からの指導要領だ。保護者の意識──ある教員は指導が厳しすぎると保護者からの指摘を受けたと話していた──も異なるだろう。何より、撮影を行った時期は新型コロナ感染症只中。生徒たちの給食は黙食で、担任が教室の戸を消毒薬で拭う。学習発表会や運動会、宿泊的学習といった大きな行事は制限され、何より緊急事態宣言で休校となる場面もある。いわゆる『通常』の状態ではない。
それらを踏まえた上で山崎監督が描きたかったのは、時代を超えて変わらない、日本の小学校教育で行われる一貫した規範のようなものだったのではないか。それは、鑑賞者である私には『躾』に思えた。日本社会に適応するための『躾』。小学校という大きな社会に属し、学級という小さな社会を円滑に営むための人員として、行われる『躾』。家庭では行わない、行うことのできない集団行動による『学び』(言い換えれば『躾』というのは『学び』で、『気づき』による『学び』の習慣化および内面化だろう)。これが日本人を日本人たらしめている、というのが監督の主張なのだろう。
指導要領が変わっても、生徒指導が異なっても、監督が過去に経験した『学び』と同じ要素が、2020年代の小学校でも同様に行われてている。だからこそ、監督はドキュメンタリーを撮ったのではないか。自分のことは自分で行い、集団に帰属して集団を運営していく日本人となるべき、模範的態度および価値観。この『学び』を主導するのが教員であり、級友であり、同じ学校の児童である。
この映画は、同じマンションに住む小学一年生同士の幼馴染みとその家庭、その学年の生徒たちおよび学年団(一年生所属の教員)である一年生と、卒業を控え最高学年であり、一年生を見守る六年生とその学年団である六年生を交互に見せていく。六年生は卒業し、中学校へ。一年生は二年生となり、今度は新一年生を見守る立場へ。
主宰により『現役教師による忌憚なき意見』という大層な喧伝がついているものの、当方は中学校および高等学校にしか所属したことのない一教員でしかない。また、本作は一度しか鑑賞していないため、生徒や事象を取り違えている可能性が高いことをお詫びしたい。
【よかった点】
乱雑で申し訳ないが、ここからは箇条書きで述べていきたい。
○長期取材の賜だろうか、対象がカメラを意識していないのがよかった。
○1年1組は生徒に、6年1組は担任にスポットライトを当てたのではないか。1年1組の担任は担任として完成されており、未だ小学生になりきれていない1年生たちを導く役目。彼らは学校の規則を身体や生活によって身につけていく。一方、6年1組の担任は明確な指導のビジョンこそあれ、未だ手探りであるようで揺れ動く。
○小学1年生はあらゆる物事に無邪気で屈託なく、あらゆる価値観を受け入れるかのごとき存在として描かれていた。
○1年1組のある男児は、入学当初廊下をひょこひょこと飛び跳ねて歩き、担任に指導を受けていたが、3月には級友をまとめる立場に自ら進み出た。入学前から彼を眺めていた鑑賞者には、彼に『学び』が内包された──成長したと理解する場面ではないだろうか。
○卒業式および入学式で演奏する楽曲の太鼓に立候補した1年1組の女児を巡る一連の流れこそが、主体的な学びではないかと思わずにはいられなかった。決してリズムを取るのが得意なわけではない女児が、大役を与えられたものの、練習不足で大勢の前で恥をかき、自らの至らなさを自らの未熟さでまざまざと理解させられる。教員による指導=『怒られる』ことを恐れた女児は練習に参加することを拒むが、担任の温かな指導により参加し、自分の力で技能を獲得し達成感を得て自己肯定感を持つ。練習不足を指摘した教員は、女児の自主性を重んじ、女児が自ら求めた際には練習に付き合うと述べ、女児が成果を出した際は丁寧に強く褒める。女児は、教員からの指摘であっても自らの至らなさにより改善を模索し、目標を達成する手段を考え、見事問題を解決した。
○東京の公立小学校の指導および内情の一端を垣間見ることができて非常に勉強になった。
○新型コロナ感染症が猛威を振っていた頃の、東京の公立小学校の感染対策を知ることができて非常に面白く感じられた。黙食はもちろんだが、生徒ひとりひとりの机に感染防止用のプラスチック板まで備えていたとは知らなかった。
○映されたのが6年1組の教室だけであったので、果たして全校で導入しているかわからなかったが、教室をルンバが清掃するのは非常に羨ましい。羨ましい。
○生徒が靴箱の上履きを丁寧に収める行為すら、チェック対象であるのは驚いた。この小学校は児童の生活習慣に対し意識的だと感じた。
○学校全体の研究授業だったのか研修だったのかわからないが、招いた講師が述べた、『現状の、決してよいとは言えない社会を構成している人間を社会人として送り出したのは、私たち教員の責任』という言葉がぐるんぐるん渦を巻いている。
○教員の指導がどれも模範的な、児童を考えた真摯な対応で、非常に参考になった。おかしいことはその場でおかしいと指摘し、どうするべきかを考えさせる。
○防災訓練で管理職の話を聞かされる児童がいずれもポケーッとした顔立ちで興味なさそうに座っているのがよかった。
○当方が鑑賞した劇場は1日1回上映のためか、満席だった。小学生の危なっかしい挙動や愛らしい挙動に、とうに小学校を卒業した鑑賞者たちが一喜一憂で声を漏らすスクリーンは、どこか温かなものを感じた。
【気になった点】
○入学後初日、6年生が1年生のランドセルをランドセル置き場にむちむちねじ込むシーンがあったが、おそらくあの棚は現状のランドセルの規格に合っていないのだろうとぼんやり思った。現状のランドセルの幅は厚いのだろう。
○小学校の担任はその性質上ほぼ教室から離れることができないため、ティームティーチングではないが、もうひとりでも副担任がいれば担任の負担が減るのではないかと思わずにはいられない。
○学級における決まり事や学びの張り紙は、特に小学校の低学年ほど担任の個性が出るのだと感じた。
○上記の楽器演奏の女児が、ひとりだけ演奏ができないことに気がつき楽譜がないことを演奏不備の理由とした際、教員が他の児童たちになぜ楽譜がなくとも演奏ができるのかを問う。あれは気づきとしては非常に効果的であり、伝統的なやり方だが、他の児童たちを促す形で女児を吊るし上げる指導にしなくてもよかったのではないか、とは思ってしまった。その分、担任が非常に丁寧にフォローし、成果に対し教員も肯定したので、結果として良くなったのも理解できる。だが、集団による個人の指摘により、『集団が未熟な個人を攻撃していい』という理由を与える契機にもなったのではないか…いや、普段の指導において教員にそこまで考える余裕もない…その点が非常にぐるぐると今も悩んでいる。
○舞台となった塚戸小学校は世田谷区という立地もあってか、非常にちゃんとしている立派な学校であり、児童であり、保護者なのだろうと感じた。共通する要素もあるとはいえ、これと同様の教育が日本中の小学校で行われているとは言いがたい。おそらくきっと、この小学校は学級崩壊を起こしていないのだろう。6年生ともなれば不登校生徒も学級に1名はいるようなものだが、それに関しては触れられていなかったように思う。日本の公立小学校教育に好意的な撮り方をしているのは確かだと感じる。
○恐らく行われていただろう小学6年生たちの中学校への引き継ぎシーンをほんの少しでも見せてもよかったのではないか…とも思うも、それは完全に個人情報が出てきてしまうし、教員が卒業式間近に何度も中学生になることの厳しさを伝えているから、そこまでしなくてもいいのだろうと思っていても、小中の一貫した教育を行うのが現在の果たすべき公立学校の姿であるから、あってもよかったのではないかと…ぼんやりと考える。
○6年1組の担任が朝6時に登校し、柵を開けて、誰よりも早く職員室で朝食を食べながら仕事をする場面が2回ほど流れる。管理職である副校長よりも早く登校していることから、彼がセキュリティも全て解除して登校しているのだなあと…しみじみと感じた。おそらく彼は学校の鍵をほぼ私物化していることだろう。
○某担任が4月の初めの学年集会で盛り上げた後、児童が騒がしく廊下を駆け抜けて教室へ戻った件を、他の学年?の担任から指摘されて、すみませんとヘコヘコしていたのが教員あるあるでうへぇええ…などと自らの過去を思い出した。
○卒業式後の6年生の学年団からの挨拶で、1組の担任が辛かったということを口にしていたが……おそらく画面外で、保護者とのやり取りや生徒間のトラブルなどがあったのではないかと……もしくは学年主任をやりながら校務分掌の部長なんかにもなってしまって、ヒィヒィいいながら毎日をこなしていたのではないかと……いろいろと思わずにはいられなかった……。児童を前に感極まって涙を流すのではなく(あの教員は初めて卒業学年を送り出したのかもしれないし、それだけ児童に思い入れがあったのかもしれない)、『無理』と教員を前に涙しながら(教員を前に!)口に出してしまうからには、相当の何かがあったのではないかと……。
○ではなぜ彼が無理と感じてしまう1年間となったのか。その要因の一つとして、彼の負担を分ける他の教員がいなかったからではないだろうか。なぜ他の教員が彼の負担を分けなかったのか。大半の教員は担任持ちだ。自クラスで手一杯の担任が、他の教員の負担を負う余裕などあるだろうか。
あくまで私個人の意見だが、増えたみなし残業代よりも欲しいのは人員だ。
○副校長が4月の挨拶で「副校長なのでボロ雑巾のように使ってください」と半ば自虐的に漏らしていたのが…大概どこの学校でも教頭or副校長にあらゆる業務(生徒指導・学校運営・教員の年休取りまとめなどとにかくたくさん)が集約されるので、お疲れさまですとしか言いようがない…。
○撮影されていたのは生徒指導が中心であり、授業風景は少なかったように思う。この点でも、監督が何を重視しているのかを窺うことができる。
○そういえば、東京の公立小学校には特別支援学級は置かれていないのだろうか。
【おわりに】
外部から──それも完全な第三者(保護者・教員・日本人)から見た小学校教育という点で、新しい切り口であり、同時に教職に就いている人間には非常に参考となったし学びとなった。ナレーションがないため、こちらで監督の意図を汲みながら鑑賞することとなるが、監督が日本の小学校教育──特に集団生活における勤勉さ、責任感の育み──を肯定していることも理解できた。
ただ、中高といえど教員として携わっている身で捉えると、どうしても美しく正しく撮られた側面が目立った。手放しで肯定するのは難しい。私は、学級という息苦しいあの檻で一日の大半を過ごさなくてはならない苦痛を我慢し、小中高をやり過ごしてきた人間だ。集団は多数派によって作られる。本作で取り上げられた学級という小さな社会は、鑑賞者である私には美しく正しく過ごしやすく見えたが、果たして全員がそうだったのだろうか。
こんなことを考えても仕方のないことで、むしろこの痛みと苦痛を通して初めて監督の意図する美徳が身につくのかもしれない。結局のところ、鑑賞者には編集者の意図する一面しか窺うことはできない。だが、集団規範を内面化し、美しい道徳的価値観を内包した日本人は、確かに小学校生活において形作られるのだろう。
本作は小学校教育の重要さ──児童の価値観形成および集団規範の習慣化を行う時期として適当であることを示している。教育に携わる者だけではなく、多くの人間が一度は鑑賞してもいいドキュメンタリーだと感じた。
(おわり)