【さわだきんたの映画観客鑑賞録】第5回 『我が谷は緑なりき』の客と『えんとつ町のプペル』の客
どんな映画でも舞台挨拶などで監督や出演俳優がその場に居合わせている場合には上映後に拍手のひとつぐらいは巻き起こるものだが、そこに関係者がおそらくはいない、つまり一般の上映でも稀に客席から拍手が起こることがある。俺自身もついこの間リバイバル上映されていた『ニューヨーク1997』の上映後にまばらな拍手に加わった。関係者が誰もいないのに拍手をしたところでどんな意味があるのだろうと訝る人もいるかもしれないが、たとえ自己満足だとしても映画に対する敬意を拍手の形で表したい時もある。ちょっとの恥ずかしさに耐えてスクリーンに拍手を送る行為は自分でやっていても端から見ていても、気恥ずかしくもそれなりに心温まるものだ。
とはいえ「なんで?」と思う拍手もある。俺の場合は炭鉱町に住む家族を描いたジョン・フォード1941年の作『我が谷は緑なりき』上映後の拍手がそうだった。場所はお馴染み池袋・新文芸坐。クラシック映画特集にて。上映が終わり他の観客が余韻もなくぞろぞろと席を立つ中で客席中央にポジションを定めていたジジィがたった一人で万雷の拍手。拍手をしながら一人で「いや~名作だ!」「素晴らしい!」などとしきりに言っているのが聞こえる。確かにそうかもしれない。クラシック映画特集で上映されたくらいだし『我が谷は緑なりき』がいわゆる映画史上の名作の一本であることに疑いの余地はないだろうが、でもねぇ、『我が谷は緑なりき』の良さを全身で享受できる人って今はもう少ないよねぇ。
かくいう俺も半ばお勉強的に『我が谷は緑なりき』を観に行ったわけで、映画の内容にはとくに心を動かされることはなかった。さすがに古すぎたのだ。けれどもあの拍手ジジィにとってはそうではないのだろうし、その拍手にはジジィにしかわからない何かもこもっているのかもしれない。青春とか、恋愛とか、家族の思い出とか。とすれば映画館のスクリーンに対する拍手とはそれを観る自分に対する、あるいは自分の人生に対する拍手なのかもしれない。「なんで?」と思いつつもちょっとイイ話を感じた一人拍手だった。
だが次の一人拍手は純粋な「なんで?」。キングコング西野が原作・脚本・製作総指揮と八面六臂の大活躍を見せた『えんとつ町のプペル』を観たときのことだった。映画が終盤に差し掛かかるとアピールを疑うほどに大きくズルズルと鼻をすする音。見れば一人で来ているビジネスパーソン風の男だ。ズルズルは止まらずひっきりなしに涙を拭うのが横目に見える。そんなに泣く映画だろうか…と思ったが感性は人それぞれだ。俺もユルグ・ブットゲライトの死体映画『死の王』で泣くが「どこで!?」と感じる人は多いだろう。さて事件は映画の上映が終わって…といっても次に起きたかは先に書いてしまったからわかるだろうが、その泣きじゃくりビジネスパーソン男がたった一人で万雷の拍手を始めたのだった。これにはさすがに虚を突かれた。『我が谷は緑なりき』みたいな古典的名作なら一人拍手もわかるがえ、プペルで?
その謎はインターネット集合知によってすぐに氷解した。俺は『えんとつ町のプペル』を上映初日に見たのだが、どうやら上映初日は各地の劇場にプペル一人拍手人間が出没したらしく、というのもこの映画の作り手であるところのキングコング西野が自らのオンラインサロンでメンバーたちにこんな風に呼びかけたのだ。「勇気を出して上映後に拍手をしてみよう!殻を破って拍手をすればあなたは変われる!」。俺が目撃した一人拍手ビジネスパーソン男も西野サロンのメンバーだったのだろう。こんな一人拍手は、さすがに呆れる。
ちなみにこの日、映画を観終わって当時住んでいた貧乏ボロアパートに帰ると同じ階の住民が酒に酔って猛烈に暴れ狂っており、呂律の回らない舌で聴き取り不能の怒号をあげまくり壁は破る勢いでドンドンと叩きまくり部屋は出たり入ったりをひっきりなしに繰り返しまくりという尋常じゃなさだったため、このままでは殺されると思った俺はとりあえずノートパソコンと充電器を持ってネカフェに避難(他の住民もそれぞれ避難していた)、そこでひとまず一夜を過ごし翌朝になるとすぐさま引っ越しの準備を始め数週間後には新居に越した。ありがとう一人拍手していた西野ファン。あなたの拍手の影響で俺の人生もちょっとだけ変わったよ。