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ワンサポナタイミン・ザ・幕

【コーエン添田のワンサポナタイミン・ザ・幕】第2回 セルジオ・レオーネ作品の長さと、『帝都物語』の短さ

セルジオ・レオーネの主要な監督作品は6作。クリント・イーストウッド主演のマカロニ・ウエスタン3部作に、”Once upon a time in…”という主題で統一されたアメリカ3部作である。これらは作を重ねるごとに上映時間が長くなっていくという点で悪名高い。

この長さの意味というか、長さの生んでいる味というのがアメリカ3部作の1作目、”Once upon a time in the west”の中のワンシーンで分かる。

『ジルのテーマ』が初めて流れるシーンである。

主人公格の一人、ジルが汽車に乗ってやってくる。彼女が駅に降り立つ。迎えが見つからず、ひとまず駅舎の中へ。その様子を窓の外からカメラが捉えている。駅の窓、ジル、駅の入口、その向こうに行き交う人々が見える。カメラが上昇する。そして映し出されるのが、今まさに荒野から町へと姿を変えつつある、西部の何処かである。ここで流れているのが『ジルのテーマ』。見ている観客は西部開拓時代を実際に体験してきたわけではないが、この『ジルのテーマ』によって、なにか強い郷愁のようなものをかきたてられる。これこそがレオーネ作品における西部、ひいてはアメリカである。

レオーネ作品における西部の町は、とても美しいが、絶対に手の届かないものとして描かれている。それは例えばセルジオ・コルブッチの殺伐とした『ジャンゴ』や、多くのアメリカ製西部劇における、あまりにも当然にそこにある町とは全く異なるものだ。

絶対に手の届かない、美しい西部の町が映画の中に現れる。それは映画が終われば跡形もなく消え去ってしまう。レオーネはそれが悲しいのだろう。少しでも長く、この中に居たいから長いのだ。

この、西部の風景に対する過剰なほどの思い入れは、現代日本における「昭和」の受容を思い起こせば、イメージしやすいのではないだろうか。中でも、ここで取り上げておきたいのが『帝都物語』である。

『帝都物語』は荒俣宏による同名の小説を原作としている。原作は明治、大正、昭和の帝都東京を、史実に沿いながらじっくりと描く長い長い物語である。読者は各時代の景色や風俗を強い没入感とともに見ていく。それゆえに関東大震災で全てが廃墟となってしまうことの喪失感が強烈である。

一方、映画版ではこの中の3〜4冊分を1作にまとめていて、明治はほとんどプロローグであり、大正は改元と、末期の大震災という2つの出来事が主として取り上げられている。そして昭和がやってくる。この映画の呼び物のひとつが、昭和最初期の銀座をくまなく再建したオープンセットであった。建造物の高層化はまだ始まっておらず、路面電車が走っていたりする。集う人々にとっての、等身大の街という感じがする。なんとも美しい。

が、映画『帝都物語』は、あっという間に過ぎ去ってしまう。昭和最初期の銀座や、始まりと終わりに置かれた神社のシーンが素晴らしいヴィジュアルを持っているだけに、その場にもっと居られたら、と思わずにはいられない。特に銀座はセットであり、撮影が終われば壊されてしまうのだ。

その場にもっと居られたら。セルジオ・レオーネの作品はその過剰な願望ゆえに、各シーンの完璧な美しさに対して全体としてはとても歪な印象を与える。しかし彼の願望を強く共有している者にとっては、その長さ、歪さこそが真骨頂なのだ。

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