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自主映画で1億稼ぐ方法

【自主映画で1億稼ぐ方法】第2回 『ブキニョボキ』全ての予定調和をブッ壊せ!自主映画の価値とは

上映前の宙崎抽太郎監督による口上

 友人の話。夜ファミレスに行くと、どこからか言い争いをしている声が聴こえてくる。しかし何やら様子がおかしい。ドリンクバーに行くフリをして見に行くと、そこに座っているのは一人だけで、一人二役を演じ分けて喧嘩をしていたという。
 電車で延々と何かを喋り続けている人を見かける。彼らの話に耳を傾けると、話している単語などで連想したことを延々と話しており、内容は支離滅裂だ。
 彼らの目からは一体どんな世界が見えているのだろう。宙崎抽太郎監督の新作『ブキニョボキ』は、まさに統合失調症患者の視点を映像化したような映画であり、氏の現時点での集大成でもある。

 ひと目見て「ヤバい」と思わざるを得ない深刻な表情の男が、公園で頭に鉄線を巻き、その先をペグで地面に打ちつける。その姿を女子大生が見ている。
 「頭の中の電流が行き場をなくしているからアースを作ったんだ。・・・気持ちいいぞぉ」
 以上は本編で一番笑ったシーンである。『ブキニョボキ』はこのような抽象的な状況と会話が延々と続く実験映画である。
 全く仕事をしている気配のない男・宮沢現実(39)はある日、神になると決める。人間を創造するために鶏モモ肉を針金で結んでヒトガタを造り公園に埋めるも、そこに現れたのは未来からやってきた女子大生・箱庭海子だった。彼女は様々なアイテムを「生み出す」ことができるという。物語は宮沢と海子のモラトリアムな日常を中心に展開しつつ、海子の存在の謎が徐々に明らかになっていく。

トンデモ造形満載の本編

 本作の分かりやすく一番面白いところは手作り感あふれるトンデモ造形である。丸い蛍光灯を顔にはめて夜の街を徘徊したり、扇風機のプロペラ部分を外して首だけにしたところに肉球のぬいぐるみをはめ込んだロケットパンチ、電卓にガラクタを貼り付けたものをスマートフォンに見立てたりなど、斬新すぎる造形が見ていて楽しい。
 またそれらが登場するのが死ぬほど殺風景な住宅地であったり、反吐が出るほど生活臭のするワンルームだったりするので、日常の中に非日常が現れる楽しさもある。これは例えば『攻殻機動隊』が日常臭あふれる近未来都市を舞台にトンデモ造形が次々登場する楽しさに近いものがあり、本作の分かりやすいエンタメ要素でもある。また造形のみならず、冷蔵庫の中にあるタイプライターを延々と打つ場面など、ある種のシュルレアリスム的表現も見ていて楽しい。この辺りの「うんざりする程の日常をベースにしたフィクションすぎる世界観のギャップ芸」は、氏の最初期の作品『魂刑事』(けるんぱことみれてふ名義)において既に登場しており、仙台の路上で魂を掃除機で回収する刑事の姿が可笑しかったりする。

猫拳ロケットパンチ

 宙崎氏の作品の特徴は「ヤバいモノ見たさ」と「脱構築」の二つが挙げられる。前述のトンデモ造形や、それらと共に街に繰り出すシーンの前衛パフォーマンス的な面白さは、まさに氏のヤバいモノ見たさの側面である。
 これらの方向性の真骨頂が、宙崎氏が生活する中で遭遇した犯罪や災害、異常な熱狂の路上ライブなど、中央線界隈の異常事態を記録したドキュメンタリーシリーズ『出クワシ』である(けるんぱことみれてふ名義)。また同じ方向性の作品として、8月15日の靖国神社ドキュメント『燃える蝉 歩け もあもあよ』や、今は無き新宿コマ劇前での特異な人間観察ドキュメント『SHIN-JUQ』(映像四郎名義)、歌舞伎町に生息する謎のホームレスとの記録『歌舞伎町のブッダ』(映像四郎名義)なども挙げられる。
 そしていずれも本質は記録することにはあらず、世界に存在するもので詩を紡ぎたいのではないかと思う。その真骨頂が『るりいろジャクソン』であった。この作品はるりいろジャクソンというバンドのライブを記録したものであるが、雨が降りしきる街の映像が挟まれることで、単なるライブの記録ではなく詩的な味わいのする作品になっている。

 本作『ブキニョボキ』は、もしトンデモ造形などのシュールなシーンのみに特化して80分程度の尺にまとめていたのならば、結構ウケる作品になったかもしれない。モラトリアムな日常を軸に、シュールな画が楽しいのが続けば、長編映画として成立すると思う。そこにアレハンドロ・ホドロフスキーピナ・バウシュのような詩的な味わいもあった。しかし宙崎氏はこう言う。「この作品はまずは自分のために作りたい」

『るりいろジャクソン』

 本作のもう一つの大きな特徴は、支離滅裂な内容である。それは例えば構成。時系列はめちゃくちゃというか、海子と出会いやがて殺すという流れが何度も続くので、そもそもどういう話なのかが分からない。というか全体的に妄想のような感じなので、夢を見ているような感じですらある。
 また本作は登場人物二人の会話がメインなのだが、これが延々と観念的で意味不明なことを話している。会話シーンは通常の映画であれば二人を一つのショットに収めて撮るか、イマジナリーラインという映画文法に則ってそれぞれを収めたショットを交互に写し出す。しかし本作は会話していても映るショットによって立ち位置も変われば、向かい合っているような編集はまるでされておらず、過激な『シン・ゴジラ』のような編集になっているのである。

 これらの意図は、既存の映画文法を徹底的に破壊する目的で行われている。通常の映画は筋のあるシナリオがあり、登場人物の会話や行動で物語が展開していく。しかし宙崎氏はまずこの筋を徹底的に分解して複雑にし、普通の会話も徹底的に破壊して観念的なものにしていく。そしてそれらを撮る際には、映画文法をも破壊していく。
 見た後に知人が「1mmも切れる場面はなかった」と話していた。私はそこまでは思わずとも、確かにクドいショットはなかったなと感じた。既存の映画文法を徹底的に破壊して通常の映画的面白さからは離脱し、シュールな被写体の面白さと、編集の生理的な快感だけで長編を撮り切るというのは、とんでもない試みである。そしてそれは半分成功していると感じた。

 宙崎氏がなぜここまで脱構築にこだわるのかというのは、氏の『参佰拾壱歩の道奥経』という作品を見ると分かる。同作は氏の故郷である仙台を震災の5年後に訪れた際のドキュメントである。「じひじてしるひめをばばいさ」などという意味を持たない言葉のモノローグと共に、誰もいない荒れ果てた被災地を淡々と、延々と映し出していく。どうしてこのような作品になったのかというと、あまりの現状を前に、分かりやすい言葉で形容したくなかったという。

 そして本作も同じ方法論なのではないか。実はこの作品はほぼ実話であるという。20年前に宙崎氏が大切な女性を亡くした経験を描くにあたって、分かりやすい映画文法で記憶や感情が単純化されることを危惧したのではないだろうか。だから物語は分かりやすく整理せず、あえて混乱した思考の主観のままに構成し、起こる出来事も簡潔でチープなものにしないために抽象的なものにしたのではないか。

『参佰拾壱歩の道奥経』意味のない言語は脱臼語と名付けられている

 「この作品はまずは自分のために作りたい」という言葉は上映終了後の舞台挨拶での一コマだった。主演の大橋正英氏も今回初めて本編を見たとのことで、内容に関して宙崎氏と軽く口論になっており、個人的にはその場面が一番面白かった。
 宙崎氏は自主映画を多々見て、これらはもはや他主映画なのではないかと感じたという。それは恐らく、自主映画とは自分が最大のお客さんであるのが醍醐味なのに、審査員に評価されるものやお客さんの入る内容にしようとして、自分ではなく他人の為のものを作ってしまうという意味なのだと思う。そしてそれはやはりプロの作るものに比べたらチープな真似事になってしまうとも思う。


 上映終了後、山本学監督の『12月にハバナで会おう』を思い出したという知人がいた。この作品は普通のサラリーマンとしても勤めるミュージシャンの池田敬二氏がキューバでライブをすることになるというドキュメンタリーである。ただ映画は一向にキューバに向かわず、全然関係ない人のインタビューが2時間延々と続くという伝説の自主映画だ。しかしこの作品も監督の中では恐らく全てが大切な素材で、頭の中では繋がっているのだと思う。後日、監督自身が若かりし頃に経験した中米での恋と青春の日々を伺った時、混乱する構成を含めて、この作品は他ならぬ山本学という人に関するドキュメンタリーなのだと思った。

 そして本作もそういった意味で非常に似た作品である。普通の人が強い思いに駆られて映画を撮ってしまう。自主映画の一番面白いところはそこなんじゃないかと改めて思う。

『12月にハバナで会おう』の、一見本編に関係無さそうに見える人へのインタビュー

 物語は最後、東京は江古田のカフェ・フライングティーポットでの決闘で終わる。海子は全て妄想であり、自分が倒そうとしていた「象」は自分自身であった。このあたりの展開はまだ解釈しきれていないが、宙崎氏にとって創作活動とは、彼女との出来事を癒す大切なものであったのではないかと思う。私の方で確認できる限り、氏が「けるんぱことみれてふ」名義で活動していたのが20年ほど前からであり、2年前に活動を再開するきっかけになったのがまさにフライングティーポットで毎月開催されている上映会・融解座である。そして今回の上映もまたフライングティーポットであったのは予定調和ではないはずだ。

 ぶっちゃけ長かった。見てて先が見えなくて辛かった。『参佰拾壱歩の道奥経』も最初の10分は真剣に見ていたが、その後は寝てしまった。ドラムを叩かないドラマーのドキュメント『Ryosuke Kiyasu キヤスリョウスケ』も長かった。ただ、本作の魅力であるトンデモ造形、それらと一緒に街に繰り出すパフォーマンス的側面、なんの装飾もなくドキュメンタリーのように撮られたうんざりする日常感あふれる住宅街、虚実と時系列が入り混じり混乱した思考そのものの構成、川や雨、風、嵐。それら全てを一つに集結させるにはやはり映画というメディア意外に表現方法が思いつかない。映画における予定調和の徹底的な破壊の先に、映画と呼ばざるを得ない作品が「うまれた」ことに拍手を送りたい。

 

 

億万長者への道・その2

「自主映画の最大の魅力は自由なこと。目先のお客さんや審査員に縛られるな。尚、儲かりはしない」

 

 

【興業記録】

『ブキニョボキ』

監督・脚本・編集・美術など:宙崎抽太郎

出演:大橋正英、戸梶美雪、目黒子、宙崎抽太郎

上映日:2023年1月29日 18:00

場所:江古田カフェ・フライングティーポット

料金:1,500円(ドリンク込み)

来場:15人程度

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しがない映画ファンです。たまに自主映画作ったり、上映イベントをやったりしてます。