【特集・イタリアンホラー 鮮血と腐肉の美学】リメイク版『サスペリア』今更解題!
以下の記事は5年前の公開時にリメイク版『サスペリア』を見たときの感想+その2年ぐらい後に名画座でもう一回見た時の感想。リメイク版『サスペリア』は今や虫の息のイタリアン・ホラーというジャンルにとっては数少ない話題作だったと思われるので、せっかくだからアルジェント新作公開祝いで大幅に加筆修正して載せてみる。
むずかしい映画だった。意味不明といってもよい。換言すればなんじゃあこりゃあである。確かに舞台は少し変わって登場人物も変わったが物語の骨子・・・遠路はるばるドイツの舞踏学校にやってきた少女とその周辺人物を学校に潜む魔女が襲う・・・は同じ、オリジナル版よりスプラッター感とオカルト感は減ったが人が死ぬことはまぁ死ぬ。結構ダイナミックに死んでそこはすごい。
でもなんじゃこりゃあ。確かにオリジナルもなんじゃこりゃあ系ではあったからその意味ではオリジナル踏襲ではあるが、あちらが意味を求めないなんじゃこりゃあならこちらは観客の理解を要求するなんじゃこりゃあであるから質的に違うなんじゃこりゃあ。映像的な快楽よりも理解できないことのもやもやが勝ってしまうのだった。
しかしテクノロジーの力というのは偉大なもので、検索すれば物事のアウトラインぐらいは大抵掴める時代である。検索した結果どういう映画だか大まかにわかった気がしたので俺なりに整理してみると、なんか第三帝国の傷跡的なやつであった。・・・それは見た人みんなわかっていたんじゃないだろうか。いや俺もそう思いましたが、そうなんですが、そうじゃなくて!第三帝国の傷跡とその周辺テーマの寄せ集めみたいな映画っていうか、なんかそういうモチーフをあちこちから色々持ってきて、それでそれをアルジェントの魔女3部作、すなわち『サスペリア』『インフェルノ』『サスペリア・テルザ』にあった諸要素と混ぜる。オリジナルの『サスペリア』も断片に断片を重ねるモザイク的な構成とか映像が超面白い映画だったわけですけど、その意味ではこのリメイクも遠いようで結構オリジナルの精神に近いことをやってたんじゃないかと思う。
第三帝国の傷跡っていうのはたとえばロゴですよ、タイトルロゴとクレジットのフォント。なんかバウハウス系のポスターみたいな前衛的なデザインじゃないすか。あれはナチ的には退廃芸術ですよね。ああいう先進的なもの、都会的なものにナチは退廃芸術の烙印を押して追放しちゃった。ユダヤ人思想家のベンヤミンはナチに追われて自殺してるわけですが、そのベンヤミンが所持していたのがクレーの「新しい天使」で、クレーもまた退廃芸術作家の一人。
ホロコーストの記憶・・・は劇中で語られるから説明不要。そのイメージはラストのサバトの間で演じられるだけではなく主人公の一人で妻をナチに殺された精神科医のトラウマとなっている。それにしてもなぜ魔女か?そしてダンスか。グーグル先生とコトバンク先生の答えはノイエ・タンツの創始者マリー・ウィグマンという女性舞踏家だった。
1914年処女作『魔女の踊り』を踊って注目され,ノイエ・タンツ (新舞踊) の旗手として活躍した。20年ドレスデンにウィグマン舞踊学校を設立。G.パルッカ、Y.ゲオルギ、H.クロイツベルクらの舞踊家を育て、最盛期には各地の分校を合せて2000人の生徒を集めた。36年のベルリン・オリンピックでは群舞を演出するが、ナチスの台頭により活動中断を余儀なくされた。第2次世界大戦後はライプチヒ、のちにベルリンで活躍。
https://kotobank.jp/word/ウィグマン-33362
第三帝国の傷跡である。ウィグマンは73年に没しているらしいが、映画の時代設定は77年だから、死んだウィグマンの魂がまだ生きているというイメージでやっているのかもしれない。魔女の「器」探しは映画の表面的なストーリーだが、なぜ器が必要かの説明はほとんどない。けれども指導者ウィグマン(的な存在)が死んで動揺する舞踏団がその象徴的再誕を目論む話と捉え直せば、なるほど筋は通る感じである。そのイメージはまた首謀者バーダー・マインホフの自殺でアイデンティティを失ったドイツ赤軍のアナロジーでもあるんだろう(※基本的にウィキ見て書いてます)
魔女のイメージにはもう一つの源があるようで、主人公の舞踏少女はアメリカのどっか田舎から来た人ですが、この人の家庭の属する宗派がバプテスト派のメノナイトというらしい。信用できないウィキペデアが完全ソースなので甚だあやしいところだが、アメリカの少数宗教らしくこのメノナイトもやたらと分派を繰り返していてややこしいことこの上ない。主人公がメノナイトの何派に属するか、劇中で仄めかす台詞はあったが忘れてしまった。しかしこれはという記述がある。
古い秩序メノナイトには多くの独特な集団がある。他の者が車を使い英語を話す傍らで、輸送用に馬車を用いたり、ドイツ語を話したりしている。多くの古い秩序の集団が共有するものは、保守的な教義、服装および伝統であり、19世紀と20世紀初期の分裂に起源がある。政治など「世界の罪」と呼ぶものへの参加を拒んでいる。多くの古い秩序の集団はメノナイトが運営する学校で子供達を教育している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/メノナイト#分散と変化 ※2018年3月28日 (水) 18:42版
なんでドイツ語?というとアメリカに移住する前はスイス=ドイツに住むメノナイトがかなりいたらしい。様々な集団に分かれているのでなにがなんだかわからないが、紆余曲折あった末にロシアに辿り着いた一派もいた。最初はよかったがロシア革命後はユダヤ人とよく似た立場に追い込まれたと書いてある。その後向かった先は逆である。
1941年にドイツ軍がソ連に侵攻した(独ソ戦のバルバロッサ作戦)とき、メノナイト社会の多くの者がドイツ軍を多くの苦しみを味わわされた共産党政権からの解放者と見なした。戦争の行方が変わると、多くのメノナイトが撤退するドイツ軍とともにドイツに逃げ、ドイツ国民として受け入れられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/メノナイト#分散と変化 ※2018年3月28日 (水) 18:42版
このあたりはもう記事ソースもなにも当たってないので完全にデマの垂れ流しの可能性もある。適当に読み流しつつ各自ちゃんとした紙の本に当たってくださいですが、ここに断片的にでも事実があるなら主人公の少女がドイツに興味を持ったこと、その興味を戒められ家族から異端児として疎まれたこともなるほど感がある。それとは無関係に、主人公の少女にとっての母親の魔女的イメージが、舞踏学校の魔女に転写されていることも重要だろう。
最後に、なぜこんなわけのわからん作りになったのかちょっと考えてみたいが、俺がその取っかかりになるんじゃないかと思ったのは舞踏講師ティルダ・スウィントンに主人公ダコタ・ジョンソンがいちゃもんを付ける場面だった。「このダンスですけど、ちょいちょい跳ぶんじゃなくて最後に一回跳んだ方が作品の意図は明確になって完成度が高くなるんじゃ」「シャラップ!これは私たちが闘いながら守り抜いてきたものなんだぞ貴様!」いやそんな風には言わないのですが、まぁ大意。
ここに見えるのは直線的で合目的的な舞踏、言い換えれば見栄えが良くて人見せ用の商品的舞踏を良しとする主人公と、それこそが自由の敵だと言わんばかりの舞踏教師の志向の違いで、主人公の内にある統一の傾向を全体主義的なものとしてこの舞踏教師は否定している、のだと思われる。そのフレーズを言っておけばなんとなく何か言った気になれるベンヤミンの盟友である思想家テオドール・アドルノの便利フレーズ「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」は「そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識を侵食する」と続く(『文化批判と社会』渡辺祐邦 訳)。せっかくなのでその詩を舞踏に書くを踊るに置き換えさせてもらったうえで文脈から引っぺがしてフレーズだけ使わせてもらうと、なにか、主人公ら舞踏女子と舞踏学校の魔女たちの関係性を言い表している感じにならなくもない。「アウシュビッツ以後、舞踏を踊ることは野蛮である。そしてそのことがまた、今日舞踏を踊ることが不可能になった理由を言い渡す認識を侵食する」
アドルノにおいては合理性の終着点がナチズムとホロコーストになるが、こうした合理性と結びつく主人公の商品的な堕落した(魔女たちの目にはそう映ったんじゃないだろうか)舞踏を批判しつつ、そういうやつらを食って操ることでしか魔女たちは体制に抗う自由の舞踏を踊り続けられないという矛盾がそこにはある。ドイツ赤軍のルフトハンザ機ハイジャックとその顛末が物語の背景となっているのは、ドイツ赤軍等々の過激派グループが革命を志しながらも反革命的なものを養分としてしか活動することができない矛盾が、舞踏学校の魔女たちと重なるからかもしない。そしてその矛盾に、彼や彼女らは気付くことができないのである。
そう考えれば、モザイク状に構成された不条理映画的な趣もあるオリジナル版にリメイク版の監督ルカ・グァダニーノは反体制のエネルギーを見出して、同時にその限界も見た、と言えるかもしれない。これはかなりかなり回りくどい、様々な圧政に対する抵抗についての映画なのである。そうだとすれば。
このあいだ名画座でもう一回見たらなにもこんな厨二臭い感想を書かなくても・・・と思ったので超一言でリメイク版『サスペリア』がどんな映画だったかとまとめ直してみると、「トラウマ的な過去を持つ老人と若い女が出会ってお互いの心の傷を癒やす映画」でした。めっちゃ簡単!めっちゃ簡単な映画じゃないかなにそれ!?初めて見たときのこの混乱っぷりはなんだったの・・・。
だってね、もっかい観たらさ、冒頭の精神科医の部屋にユングの本置かれてるじゃんさ。ユング派のカウンセリングってフロイト=ラカン派と違ってカウンセラーと患者が対等な立場に立つんです。で、対話の中でお互いに今まで気付かなかったものの見方やイメージを発見していく、その気付かなかったものを通して患者は自分を癒やすし、カウンセラーは逆に自分の抱えていた問題を知るというような創造的な共同作業なわけです。
リメイク版の『サスペリア』でダブル主人公の老人とアメリカ少女がやってるのはまさしくこれで、アメリカ少女は厳格な母に虐待を受けて育ったトラウマがある、老人の方は自分のせいで妻を死なせてしまったというトラウマがある、二人とも妻=母の幻影に縛られていて、その恐怖の幻影が二人の周囲の人間の振りまく様々な妄念を取り込む形で「魔女」のイメージを生み出すわけです。
だからラスト近くのサバトの間のシーンでアメリカ女がすることは自身のトラウマを乗り越えるための象徴的な行為であると同時に、老人が願っているトラウマからの解放も意味する。この映画の監督は話題を呼んだ『君の名前で僕を呼んで』の人ですが、これはもうタイトルにしても内容にしてもリメイク版『サスペリア』の前振りのようなもので、接点皆無に思われた二人の人間が惹かれ合って、同じ名前で呼び合うことで同化して、その経験の中で自己を確立してやがて分離していく・・・というのが『君の名前で僕を呼んで』のあらすじですが、こうした物語の骨子はリメイク版『サスペリア』も上に書いたような理由で同じなわけです。ベンヤミンがどうとか別にいらんかったよ。オリジナルの『サスペリア』や『サスペリア PART2』同様に、最初から答えはあったんだ!
でも最後に出てくる柱の落書きというか彫りはあれ、やっぱベンヤミン的なものだったんじゃないかな。古びた彫りから死んだ者たちの記憶が一斉に立ち上がってくるというイメージは。それはまたアドルノ的な抵抗の形でもあるかもしれない。個人的であること、社会や組織のルールや空気に個人的な違和感を持ち続け、決してそれと同化しないこと。それがアドルノがナチス的なものに抵抗するほとんど唯一の方法として提起するものであり、このリメイク版でも主人公スージーは舞踏学校の中で一人だけ浮いた異人であり続け、そのことによってナチスに対する抵抗者から無邪気なヤング女子の血をすする圧政者へと堕落した魔女たちに裁きを下すことができたのだった。
アウシュビッツ以後、舞踏を踊ることは野蛮であるが、野蛮ではない舞踏があるとすれば、彼女だけは踊れるだろう。これはアルジェントとはまったく異なる、けれどもやはり女性賛歌の映画なのである。