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【特集 北野/たけしの映画世界】この北野映画/たけし映画を見ろ10選!

一時は権利トラブルによりお蔵入りになりかけていた北野武監督最新作『首』がついに公開!ということでそれを記念して今回はMOVIE TOYBOX執筆陣でこの北野映画/たけし映画を見てくれ10選を作ってみたわけですが、いやーこうして眺めると北野武/ビートたけしという人物は実になんだかよくわかりません。強烈なバイオレンス描写で見る者を震撼させたかと思えば子供のような屈託のない笑顔で和ませたりもする。芸術的な映画を撮ったかと思えばものすごくベタなお笑い映画を作ったりもする。ドラマも含めれば出演作は100本近くにのぼり、仕事を選んでいるようで選ばない。

そんな北野武/ビートたけしの得体の知れない魅力がきっと多少は考えるにおそらくもしかするとわかるかもしれない北野映画/たけし映画10選を、どうぞ!

ゴースト・イン・ザ・シェル(2017)

『ゴースト・イン・ザ・シェル』といえば士郎正宗原作の漫画作品『攻殻機動隊』を押井守が1995年に映画化したアニメ版がもっとも有名であろう。北野武というかビートたけしはその『攻殻機動隊』には奇縁とも言えるものがあり、何と彼が主宰する東スポ映画大賞でかつて押井守の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』を大賞に選んだことがあったのだ。確か1996年のことだったと思うので、まさかそれから20年の時を経てハリウッドの実写版に出演するとは誰も夢にも思わなかったのではないだろうか。

そのまさか感はお笑い芸人・ビートたけしが映画監督・北野武という新たな一面を見せたときを思い起こさせる。個人的にビートたけしが初めて映画を撮ったときのメディアの扱いもギリ覚えているし、その後ヨーロッパでえらい賞を獲ってから国内メディアが手の平返したときのことも覚えている。本作に彼が荒巻課長として出演すると聞いた時も上記の繫がりを思い出しながらもやはり驚いた。だってアニメとか全然好きじゃなさそうでしょ。

でも元来そういうイメージとは違うところがたくさんある人なんですよね。映画は言うまでもなく、絵を描いたりピアノを弾いたり。テレビゲームにハマってたときもあったしな。本人は照れ隠しに「こういうの全然知らねぇんだけどさ」とか言うけど、めちゃくちゃ広くアンテナ張ってる人なんですよね。本作はそのことを思い出させてくれると思う。役者としてはもっとパブリックイメージとは違う役とか演じてみたかったのではないだろうか。ちなみに監督のルパート・サンダースは原作のみならず北野武についても超好きらしくて本作は全体的にファン丸出しな映画に仕上がっていて、なかなか微笑ましい映画です。

ヨーク

ソナチネ(1993)

沖縄の美しい青空と白い砂浜。そんな絵に描いたような景色の中で、徐々に破滅へと向かっていくヤクザたちを描いた本作。沖縄の浜辺でゆったりと流れる時間とそこに一瞬にして入り込む暴力と死の緩急がたまらなく素晴らしい…。

主役の村川を演じるのは本作の監督・脚本を務める北野武。ボスでは無いのだけど、組を取り仕切らなければいけない村川からは中間管理職の悲哀を感じさせる。お馬鹿で血の気のある若者の面倒を見なければいけない所なんかは、現実にビートたけしがたけし軍団の若い者を食べさせなければいけないという事実とシンクロしていて、かなり北野武&ビートたけしのリアルな苦悩を感じさせる部分だったりする。東京から来たヤクザが沖縄でボロいロケバスに乗せられるシーンは、きっとたけし軍団もこんな感じだったんだろうなと思って笑ってしまった!

ヤクザが沖縄の浜辺で束の間の休息を楽しむ場面はとても微笑ましいのだけど、村川が自分のこめかみに銃を突きつけるシーンなど、そこには暴力と死の気配が忍び込む。村川を好きなる女性は村川の「強さ」に憧れるのだけど、それも虚勢の上に作られたものでしかないと村川はうそぶく。遊びも殺しも終焉までの虚構に過ぎないと悟っている村川のドライな視線が頭から離れない。

突然に訪れるヤクザの夏休みの終わり。美しい静止画のようなショットを背景に、ヌーヴェルバーグのようなシュールな演出で暴力と権力の虚構性を描き切る様が本当に素晴らしい!北野武演出ここにあり!参りました…。

ぺんじん

哀しい気分でジョーク(1985)

芸人ビートたけしの本質を突くようなタイトルの、たけしが売れっ子お笑い芸人の主人公を演じて主題歌も歌うアイドル映画。主人公のお笑い芸人は毎夜毎夜遊び歩いて元妻との間に出来た一人息子を顧みない。だがある日息子が難病に冒され余命幾ばくもないことを知り、それからは人が変わったように息子のために時間を使うようになる、のだが・・・。

家に帰らず夜の街で遊んでばかりいる理由を劇中のたけしは「外ではずっと仮面を被って自分を演じているが、家にいるとどんな自分を演じていいかわからなくなる」と語る。この頃(1985年)はどうか不明も実際のたけしも離婚前は別居状態にあり、それ以前から家にはあまり帰っていなかったというから、この台詞にはたけしの素顔が透けて見えるような気がする。たけしは制作側には入っておらずあくまでも役者としての起用だが、その役柄がビートたけしを思わせるものであることから、ここにはたけしの素の部分も幾分か反映されているのじゃないだろうか

たけし人気に乗じたアイドル映画ではあるが単なるアイドル映画には終わらず、息子の死という悲劇をお涙頂戴物語として売り物にしようとする芸能界の冷酷さや狡猾さも描かれ、その業界批判のスタンスは後のたけし原作映画『教祖誕生』や監督作『アウトレイジ』へと受け継がれる。アメリカン・ニューシネマのような虚無的なストップモーションのラストも印象的。

さわだ

その男、凶暴につき(1989)

満面の笑みを浮かべたホームレスのひとときの憩いが不意に投げられたボールで中断され、公園の本来の利用者たる少年たちの執拗な暴力に苛まれる。ホームレスをいたぶった少年は帰宅後自室で、一部始終を見ていた刑事に繰り返し殴られて自首を促される。

冒頭のシーンからこの作品に通底しているのは、暴力の行使によって成立する男性階層社会であり、同時に階層状であるからこそ男性間では暴力の行使が許されるということだ。この社会に組み込まれれば階層を自ら降りることはできず、他者によってもたらされる死という形でようやく解放される。その代表がビートたけし演じる刑事と白竜演じる殺し屋だが、彼らはあまりにもこのルールを体現しているがために男性間からも逸脱していると見なされ、排除される。頭が挿げ変わっただけでシステムは何も変わらないことを示すラストシーンで秘書らしき女性が出ていく男を目で追い、そしてモニターに戻るのは、これが男性社会に対する外部からのまなざしであり、同時に観客の視線であることを示唆しているのではないかと夢想する。

エリック・サティ『グノシエンヌ』の単調なパターンを繰り返しながら行われる、単一な暴力的動作。相手の精神を屈服するために行われる暴力に、行使者の喜びは見られない。システムを維持し、自身の存在を確立するために行われる暴力。暴力による緊張と緩和はひりつくほどだ。久しぶりに見直したところ、ホラーとして非常に怖いものがあった。事故前のビートたけしの、何を考えているのか読めない真顔が何度も流れ、下手なシリアルキラーより怖い。ぜひ確かめてみてほしい。 いやあ、暴力と結びついている男性社会って怖いですねえ。

散々院

GONIN(1995)

石井隆の代表作的な扱いを受けているノワール・バイオレンス『GONIN』は石井隆がその前もその後も「女」を描く作家だったことを思えば実は石井隆のフィルモグラフィー上特異な位置にある作品であり、実際にどの程度のものかは石井隆亡き今では知る由もないが、ほとんど同時期にノワール映画で映画監督デビューを果たし、今作では強烈なインパクトを観客に与える隻眼の殺し屋を演じているビートたけしが、この時期の石井隆になにがしかの影響を与えた、という見方はあながち的を外したものでもないだろう。というのも映画監督としてのたけしは一貫して「男」を描き続けてきたからだ。

さてここでのたけしは相棒の木村一八とデキているゲイの殺し屋なのだがその愛情は相当に屈折しており、殴りながら犯すという形でしか木村への愛を表現できない。それは愛なのかという倫理的なツッコミも今の世の中ならあるだろうが、倫理には収まりきらないから愛は厄介で、同時に尊いとも言える。根津甚八らの復讐の銃弾に相棒にして愛人の木村が(たけしを庇って)倒れたとき、ただただ凶暴で冷酷な殺し屋と見えたたけしは思いもよらない悲しみを全身から滲ませる。その後の抜け殻のようなたけしの表情は印象的だ。自らの暴力性が復讐という形で木村に死をもたらしたことを、自分が性奴隷などではなく本心から木村を愛していたことを、おそらくそのときに殺し屋たけしは知ったんじゃないだろうか。

共に愛する人を失った本木雅弘と殺し屋たけしが暴力の応酬の果てに邂逅する痛ましくも穏やかなラストは北野武監督作『ソナチネ』や『アウトレイジ 最終章』と呼応する。石井隆が北野武から男の苛烈な暴力性を受け取ったのだとすれば、『GONIN』に主演したことで北野武もまた石井隆から、暴力のもたらす痛みを受け取ったのかもしれない。

さわだ

アキレスと亀(2008)

 夢が叶わないならば、いっそ死んだ方がマシだと思った事はないだろうか。『浅草キッド』や『キッズ・リターン』に感動したならば、本作もぜひご覧いただきたい。
 売れない芸術家二人が、屋台で酒を飲みながら将来の不安に押しつぶされそうになっている。そうすると屋台のオヤジに、「砂漠で死にそうな時に、握り飯と芸術だったらどちらを選ぶ」と問われる。迷わず芸術と答える若者をオヤジは諭す。暗いエネルギーの行き場がどこにもない若者は、発狂してマヨネーズを頭から被り、屋台を飛び出して歩道橋から飛び降りて自殺してしまう。

 本作は芸術をテーマにしたホラー映画である。たけし十八番の銃も殺し屋も登場しないが、人がどんどん不幸になって死んでいく。そしてそれらがあまりに悲惨すぎて間抜けでもあり、たけし映画の「死の臭い」と「酷すぎるギャグ」のフアンであれば必ず見るべき一作である。
 たけし初のアニメーションで始まる冒頭も必見だ。これが、幼い時分に親戚に見させられたシナノ企画が出してるアニメーションみたいな味わいがあるのだ。とにかく不思議な魅力に溢れた一作である。

 あと『首』超たのしみです! 松村邦洋さん全員のモノマネしてくれー!

二階堂

あの夏、いちばん静かな海(1991)

この映画の冒頭はゴミ収集の仕事をしている主人公と相棒のおっさんが収集車の車内にいるシーンから始まる。カメラはその収集車が路上で停車しているのを背後から映す。車が路上に止まっていたら多くの人が思うのは、信号待ち、であろう。しばらくの後、ゴミ収集車が動き出して右折しフレームアウトするとそこには信号などなく、ただ海が広がっているのである。そんなに人通りはなさそうな道なので徐行さえしていればわざわざ停車までするような曲がり角でもない。じゃあ仕事中の車の中で二人の男は何をしていたのだろうか。多分、海を見ていたんですよ。これは冒頭からそういう映画なんですよ。映画っていうかさ、もう詩だよねと思う。

また本作の主役の二人の若い男女は聾啞者なので発声によるコミュニケーションはない。普通の映画なら手話による会話を入れるのだろうが本作にはそれもなく、まるで二人だけのシーンはサイレント映画のように描かれる。まるでファンタジーとかメルヘンと言った方がいいような映画だ。こんなの嘘なんですよね。少なくとも聾唖者を描く映画としてはリアルではない。仕事中のゴミ収集車が海を眺めるために停車しているというのも同じようにリアルではない。だがそこには詩情がある。この作品は映画というよりも、観てるこっちが恥ずかしくなるような北野武の詩なのだ。ただ、北野武という人はものすごくシャイなので照れ隠しに笑いを挟んだりしちゃうのだが。

ちなみに本作の舞台となる浜辺は地方の海岸沿いならどこにでもありそうな護岸された大自然的な意味での美しさは欠片もない海なのだが、それも監督の照れ隠しの一つなのかもしれないな。もしこの設定とストーリーでディズニーが映画を撮ったらサーファーが選ぶ世界一美しいビーチトップ10とかに選ばれるような場所でロケをするに違いない。コンクリートで舗装された海辺を無言で歩く二人の姿には北野武の詩と照れ臭さがないまぜにされていて、本当に美しいと思うのだ。

ヨーク

ほしをつぐもの(1990)

北野武が企画と出演を務めた戦争児童ドラマ。脳梗塞で倒れ生死の境を彷徨う早期定年サラリーマンの田中邦衛は幼少期のある出来事を思い出す。戦争末期、疎開先で食糧不足と地元民の邪険な眼差しに悩まされていた幼少期の田中邦衛は「東京は無事で食糧もあるらしい」との噂を信じて疎開仲間の子供たちだけで一路東京を目指す。だが山歩きや旅の経験などない都会の子供たちが何百キロ先かわからない東京にたどり着けるはずもなく一人また一人と脱落、もうダメかと思われたその時、彼らの前に現れたのは山で暮らす謎のおじさん、ビートたけしだった・・・。

戦争ものといっても主な舞台は東北と思われる山奥なので戦闘シーンなどはなく、描かれるのは戦争という非日常の中でのたけしと子供たちの素朴で微笑ましい交流。出会ったばかちの子供たちにバカヤロー!お前ら死ぬぞ!と凄みながらも「マムシなんかなぁ、血をちゅーっと吸っちゃうんだぞ。こーんなでっかいマムシがお前・・・えぇ?」とか言って自分で笑っちゃうたけしの屈託のなさを見れば、この人が本当に子供たちと子供の世界を愛していることがわかる。立場上は一時的な保護者だがたけしは決して子供たちを下に見ようとはしない。自分もその一員としてしばし大人のいない子供だけの楽園を楽しんでいるかのようだ。けれども戦争という大人の世界は、そんな子供たちの楽園をいつまでもそのままにはしておかない。企画での参加ながら北野武の世界観と、ビートたけしのチャーミングな面の詰まった、小さなたからもののような映画だ。

さわだ

3-4X10月(1990)

鮮烈な処女作『その男、凶暴につき』の次作であるがために興行収入惨敗の憂き目にあった本作。しかしながら、ユートピア・逃避先としての沖縄の登場であったり、ヤクザ(組織)から爪弾きにされるヤクザをビートたけしが演じていたり、ヤクザの事務所殴り込みの末の皆殺しだったり、小野昌彦がバイト先で揉めるヤクザの組の名前が大友組であったりと、今後の北野武映画の萌芽が見受けられる点でもう少し株が上がってもいいのではと歯がゆく思う。また、女性への暴力とたけしが行う強姦、結果として心中に付き合わせるなど、女性への明確な暴力が繰り返し表現されているのが面白い。特に、たけし役の情婦に対する執拗な暴力はそうした性格の人では済ませられない何かがある。

『未来世紀ブラジル』を思わせる構造は、集団競技への嫌悪を抱く当方には非常に馴染み深いものがある。井口薫仁の役はビートたけしの分身なのだろうが、本作では井口薫仁の役の分身がビートたけし役となっている。わざわざ逆転させたのが面白い。それにしても、飴細工のビール瓶で頭を殴った後にボクシングでぶちのめし、またビール瓶で殴ってボクシングでぶちのめし…のシーンは何度見ても笑ってしまう。指詰めの際に『忍耐』と書かれた将棋の駒を重しにするところも。完全に狙ってギャグにしている。

散々ボコボコにされた飯塚実がアイスキャンディを差し出して小野昌彦といっしょに食べるの、なんかものすごく好きでなあ。渡嘉敷勝男がビートたけしを絶妙な距離で慕うのもなんか好きでなあ。それでいて、渡嘉敷役・飯塚実役へのあからさまなホモセクシュアル表現は、上記のほのぼのとしたホモソーシャル表現とは明らかに異なるので妙に気になっている。「振らなきゃ始まんないよ」 本作は思い出した頃になんとなーくまた見たくなる。言語化しづらいのだが好きです。

散々院

戦場のメリークリスマス(1983)

「メリークリスマス、ミスターロレンス」。画面いっぱいに笑う坊主頭のビートたけしが印象的なこのシーンは作品の終盤に現れる。

1983年公開の大島渚監督作品。太平洋戦争中、日本占領下のジャワ島を舞台にした本作で、ビートたけしは粗野なハラ軍曹を演じている。作品の冒頭から男性捕虜と性交した部下に切腹を命じるなど、かなり荒っぽい軍人として描かれるハラ軍曹。英語も堪能で冷静沈着なエリート軍人、ヨノイ大尉(坂本龍一)とは対照的な人物として描かれるが、日本語を話せる捕虜のロレンス中佐(トム・コンティ)にはどこか親しげで、二人の間には立場を超えた奇妙な友情が垣間見える。特に作品中盤でのクリスマスのシーンは印象的で、仏教徒であるハラ軍曹はお酒を飲んで上機嫌になり、スパイ疑惑をかけられていたロレンスとセリアズ(デヴィッド・ボウイ)を釈放する。戦時下での敵味方、そしてホモソーシャル的な傾向が強い軍隊の上下関係の息詰まるシステムを無効化する祝祭の力。セリアズとヨノイの抱擁と合わせて、男性的なシステムの壁が一瞬消えてなくなるシーンとして忘れがたい。

「メリークリスマス、ミスターロレンス」。戦後ロレンスと逆の立場になったハラ軍曹が放ったこの言葉は、敵味方を超えた一人の人間への最後のラブレターのように思える。男性的なシステムな中で破滅してゆく主人公を描く北野武監督の作風は、もしかすると大島渚から影響を受けたのかも。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしの顔面力がとにかく印象的な一作。

ぺんじん

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