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底抜け映画再審理

【底抜け映画再審理】第8回 被告:『DRAGONBALL EVOLUTION』

すっかり久しぶりの更新なので忘れ去られてしまっているかもしれないため改めて書いておくと、本コーナーは“期待に反してイマイチだった映画たちを再審理する”という趣旨のものである。今回で第8回なのだが、そのテーマで記事を書くとなった際に最初に思い浮かんだタイトルというのは『デビルマン』と『DRAGONBALL EVOLUTION』であった。

クソ映画、特に原作モノの実写化クソ映画としては日米それぞれを代表するほどドメジャーな作品である。正に双璧、もしくは東西横綱といった風格のあるどこに出しても恥ずかしくないクソ映画だ。ちなみに私は両作品とも公開日に劇場で観ているので、そのディザスター級の映画体験のサバイバーとして両タイトルを語ることもできた。特に『デビルマン』の方なんかは公開当日に結構大き目な台風がくるという予報だったにも関わらずに友人と二人で劇場へ行ったことを覚えている。劇場はもちろん予告編でも登場していた渋谷東映(現ル・シネマ渋谷宮下)だ。映画を観ながらよく寝るタチではあるのだが、それはそれとして映画を観てる途中に尿意を感じてもできるだけ観逃したくはないのでおしっことかは可能な限り我慢するのだが(もうどうでもいいや…)となっておしっこしたくなった瞬間に躊躇なく席を立ってトイレに行ったら友人も付いてきて、2人で意味深に笑った後に「今帰ったらチケット代が500円返ってくるとしたらどうする?」と私が聞いたら間髪入れずに「言うまでもないだろ」と返ってきたことを今でもハッキリと覚えている。多分映画そのものより私と友人のそのやり取りの方が面白かったと思う。

この記事はあくまでも『DRAGONBALL EVOLUTION』が主題なので『デビルマン』の思い出語りはここまでにしておくが、その2作品は個人的にも衝撃的な映画であったことは確かである。では本コーナーの趣旨にピッタリなその2タイトルを今までお題にしなかったのはなぜかというと、まず第1にはその2作品は今まであらゆるメディアでクソ映画として語られ尽くしているから今さら私が新しい視点を提供することはできないだろうと思っていたからである。貶すにしろ持ち上げるにしろ散々おもちゃにされた後なのでもういいだろう、ということだ。2つ目の理由は私がその2作品の原作漫画の大ファンだからである。永井豪の『デビルマン』も鳥山明の『ドラゴンボール』も自分の人格形成に多大なる影響を与えた漫画作品なので、冷静に再審理などできずに「こんなもん再審理するまでもなくクソ映画でいいよ」という気持ちが心のどこかにあったからなのだ。その2つの理由は本コーナーにピッタリだった両作品をチョイスしなかった理由としては妥当性があるだろうと思う。

ではなぜ今さら『DRAGONBALL EVOLUTION』をお題に選んだのかというと、その理由は本作の原作者である鳥山明の訃報を受けてのことである。逝去は2024年の3月1日でその報せは同月8日に報道されたので、本当ならもっと早くこの記事を書くべきであったところなのだが、どう書けばいいのか分からなくて5カ月以上も経ってからやっと書き始めた次第である。狙っていたわけではないが、まぁお盆の時期なのでちょうどいいかな! みたいな気持ちもなくはない。そしてその適当さというのはこの5カ月で何度か『DRAGONBALL EVOLUTION』を見直して感じたことでもあり、そこには原作『ドラゴンボール』にも繋がるものがあるんじゃないかなとも思えたのである。

『DRAGONBALL EVOLUTION』はお世辞にも優れた映画ではない。それは漫画『ドラゴンボール』の実写映画としてはもちろんのこと、単に1本のアクション映画として見ても面白い映画ではない。ただ、何とか原作の『ドラゴンボール』の見せ場を作りつつ85分というやや短めの尺で一本の映画にまとめようという苦心の跡を見て取ることはできる。例えば本作では原作でいうところのピッコロ大魔王とのバトルまでが描かれるのだが、それは原作の単行本では14巻までということになる。85分の尺の映画でコミックスの14巻分を描くなんてのは土台無理な話なのでかなり大胆に原作を切り貼りしなくてはいけなくなるというのは分かっていただけるだろう。一例を挙げれば原作だと第1話の時点で死亡していた悟空の育ての親である孫悟飯が存命で悟空に稽古をつけているというシーンから始まるのだが、そこで本作はカンフーアクションものであると示しながらドラゴンボールという魔法のアイテムとかつてピッコロ大魔王というヤバイ奴がいたということを説明するのである。んで人物紹介として冒頭で悟空の原作とはだいぶ違うキャラクターを描いた後に孫悟飯はピッコロ大魔王の手下に殺されて、悟空とピッコロ大魔王との間に因縁を植え付ける。この冒頭(といってもここまでで85分中の25分も使ってしまっているのだが)はそう悪くはないと思う。その後はやや…いやかなり駆け足ではあるが概ねは原作通りでブルマと亀仙人に出会いドラゴンボールを集めながら打倒ピッコロ大魔王のために修行もしていくといった感じである。

その構成自体はそこまで悪いとは思わないし、一応カンフー映画の王道としての修行シーンも割と多めには取られる。原作へのリスペクトなどロクに感じることができない映画ではあるが『ドラゴンボール』といえば修行、というイメージはあったのだろうか、移動中の合間などという隙間的なシーンでも修行シーンは描かれるのである。ただ、その修行シーンが原作にあるような亀の甲羅を背負うだの猫の仙人に鍛えてもらうだの何倍もの重力下でトレーニングするだのといった面白アイデアが全くなくて、なんかよく分からんけどとにかく気を感じるのだ! みたいなクソつまんない修行シーンなのは大問題ではあるのだが…。

そしてその上で本作でやはりどうしても評価が辛くなるのは修行シーンはあれど敵とのバトルシーンが圧倒的に少ないことであろう。そこは好意的に取れば原作の序盤もそうであったようにバトルよりも冒険展開を描いたとも言えなくもないのだが、悪役としてピッコロ大魔王を引っ張ってくるなら最終決戦へ向けて盛り上がるような戦闘シーンは欲しいところだ。原作だとヤムチャとの出会いも最初は敵同士として描かれるが本作ではそこのバトルも端折られて何でかよく分からないままに仲間として同行したりする。かと思えば原作には存在しない怪物(ピッコロ大魔王の手下のタンバリンとかシンバル辺りがモチーフなのだろうか…)が出てきて大して盛り上がらない戦闘シーンが挟まれたりするのだ。いや、ただでさえ少ない戦闘シーンならそこはちゃんと原作キャラを出して盛り上げろよと言わざるを得ない。あと、バトルといえば初期のドラゴンボールの主軸でもあった天下一武道会も描かれてはいるのだが、そのシーンの必然性はほとんど感じないし映画全体のテンポを損なっているだけのようにも思える。挙句の果てには牛魔王の娘ではなくハイスクールのクラスメートという死ぬほどどうでもいい立ち位置のキャラクターに改変されたチチの存在である。あろうことかこのクラスメートのチチに対して悟空の方から恋愛感情を持って仲良くなりたいと思ってるようなシーンすらあるのだ。原作では結婚という制度すら知らなかった男なのに!! まぁその辺は続編があれば(無いが)夫婦になるはずだった二人の原作にはなかった恋愛パートを盛り上げるための伏線だったのかもしれないが、そんな皮算用をするくらいなら全力で第1作目を盛り上げてほしかったところである。ちなみに上記した天下一武道会ではなぜかチチが戦うのだがアクション的な見せ場は一切ない。マジで何のために天下一武道会のシーン必要だったんだ。脚本の人に直接教えてほしいところである。いや知ってるよ、俺は多分この記事を読んでいるほとんどの人よりも本作を見ていると思うからピッコロ大魔王の手下の女エージェント(多分ピラフ一味のマイがモデル)が後にチチに化けて悟空一行に潜入してドラゴンボールを盗むためにチチの血液を採取する必要(多分DNA情報を元に変身するという設定なのだろう)があったから天下一武道会でチチが腕を斬られるシーンがあったのだろうということくらいは知ってるよ! でもそれ別に天下一武道会じゃなくてもいいから! 別に悟空とチチが街中でデートしてるときにすれ違いざまにマイ(と思わしき人物)がチチの髪の毛を一本拝借するとかでもいいじゃん。別に大した意味もなく天下一武道会だけ拾わなくてもいいんよ。まぁ続編があれば(無いが)その変身能力はウーロンやプーアルのようなキャラに引き継がれてキャラ同士の入れ替わりでドラマを作ったりもできたかもしれないが。

そのように、原作漫画にはあったもっとも抑えるべき要素として、そして原作漫画初期の人気が出た要素としてのカンフーアクションの面白さが完全に完全に損なわれてしまっているのが本作で1番手痛い失敗であろうと思う。多少設定を無視したストーリー展開や人物像があっても格好いいアクションが20分おきくらいにあればもっと受け入れられる作品になっていたと思う。もっと言えば語り草になっている終盤のかめはめ波の描写(あれをかめはめ波とは言いたくないが)だけでもめちゃくちゃ格好いいものになっていればまた違った評価になっていたであろう。『ドラゴンボール』ファンの観客はそこをこそ大スクリーンで観たかったのだから。その点では同じ週刊少年ジャンプの実写化作品として大ヒットした『るろうに剣心』は見事に客のニーズに応えたといえるだろう。正直『るろうに剣心』もトータルでそこまで凄い映画だとは思わないが、原作漫画で描かれた手に汗握るバトルの迫力がもうそれだけでお釣りがくるって程にこれ以上ないくらいの見事さで実写作品として描かれていたのだから、そりゃヒットするよなってところである。別に皮肉でも何でもなく娯楽映画、それも原作モノの娯楽映画なんてものは終盤の盛り上がりどころさえキッチリと演出してカタルシスを与えてくれれば最初の1時間がグダグダでも、同時代的なテーマが無くても、当然のように鋭い社会批評なんかも無くても、まぁ何となく面白かったなで劇場を後にすることができるのだが本作ではそこも完全にコケてしまっていたのである。さらに言えば本作はCGとかSFXとかVFXの技術もしょぼいからな! 同年に公開された映画としてはこれもシリーズものとしてあんま評価が高くない『ターミネーター4』とか『トランスフォーマー/リベンジ』とか『ハリー・ポッターと謎のプリンス』とか、邦画なら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』とかありますけど映像面だけを引き合いにしても全部ボロ負けですよ。じゃあ作り手の熱量があるのかっていうとすでに散々書いたように原作漫画とはかけ離れた描写ばかりでそこも無いと言わざるを得ない。

それに加えて私は原作漫画の大ファンですからね。これは本記事の最初の方にも書いたように、こんなもん再審理するまでもなくクソ映画だろ、と思ってしまうところはあるんですよ。じゃあ一切顧みる必要もないクソ映画ってことで終わるか、まぁそれでもいいけどな、とも思うのだが、これまた上記したように本作には不思議と原作漫画の魅力を再発見させてくれる部分もあるのである。

それは“ま、いっか”ということである。“ま、いっか”の思想と言ってもいいかもしれない。私が『ドラゴンボール』という漫画が大好きなのは、第一に鳥山明という無二の作家の天才的な画力だけでなく構図やコマ割りや視線誘導といった視覚に訴えかける作用を非常に高いレベルで活用して一つのページ内における画だけでまるでそれが映像のように動いているかのように感じさせる手腕である。特にアクション面に於いては私が知る限りでは未だにコマとコマの間の動きまで見たような錯覚に陥るほどの漫画家は他に存在していないと思う。そしてその次くらいというか、作画面での技術論的な部分ではないのでどちらの要素が一番好きとかいうことはないのだが、上記した“ま、いっか”の思想である。思想というと堅苦しい感じもするので“ま、いっか”のノリと言い換えてもいいかもしれない。

『ドラゴンボール』という漫画を読んだことがある人ならおそらくほとんどの人の共通認識として主人公である孫悟空があらゆることに対してノリが軽い奴だ、ということがあると思う。上記した“ま、いっか”が最初に出てくるのはピラフ城に閉じ込められた悟空一行だったが悟空が窓の外にある満月を見たことで大猿に変身、そのおかげで牢が壊れて脱出したのはいいものの理性を失った大猿悟空を元に戻すためにハサミに変身したプーアルが悟空の尻尾を切断、その後大猿から戻って意識を取り戻した悟空が自分の尻尾が無いことに驚いた直後に“ま、いっか”と言ってのけるのである。当時12歳だった悟空が生まれてからずっと身体の一部だったはずの尻尾を失って“ま、いっか”で済ませてしまうのである。これは幼少期の私にとっては衝撃的でしたね。いや、よくねーだろ、と。

でもそこが『ドラゴンボール』のみならず、鳥山明作品の素晴らしいところでもあると思っていて、なんというか冷徹とかではなく清々しいというニュアンスでのドライさがあると思うんですよね。上で悟空とチチの恋愛ドラマは描かれなかったと書いたしファンならその理由も先刻承知だとは思うが、鳥山明は恋愛に限らず人間の感情自体をかなり乾いたタッチで描いていると思うんですよ。それはネット上でもよくネタにされる「ドラゴンボールがあるから死んでも大丈夫だ!」という悟空の余りにも感情を突き放した合理的な判断からも窺い知ることができると思う。ただ少年漫画的なお約束としての爆発的な感情も描かれていて、それは怒りなんだけど大体『ドラゴンボール』に於ける怒りはあんまり長続きしないんですよね。作中で悟空の爆発的な怒りが描写されたのはクリリンを殺したタンバリンと仲間たちを殺したナッパと再びクリリンを殺したフリーザだったと思うが、その中で感情に任せてぶっ殺されたのはタンバリンだけである。もちろん、まだベジータが控えていたナッパのときも超サイヤ人に覚醒できてやっと優位を取ることができたフリーザのときも“ま、いっか”と言ってのけるほどの余裕はなかったが、心情的には、お前を殺しても死んだ仲間が生き返るわけじゃないからもういいよ、くらいの感じではあったのだろうと思う。

そしてそのようにベジータからセルまでのシリアスなバトル展開が全世界でバカウケしたというおかげでそれ以降鳥山明には格好いいバトルアクションが求められ続けていたと思うのだが、漫画家としてはデビューから最初のヒット作である『Dr.スランプ』及び『ドラゴンボール』の初期までは明らかにギャグ漫画の人で、そのドライな合理性は主に作中ではツッコミとしても発揮されていたのである。悟空が言い放つ“ま、いっか”はどっちかといえばボケ寄りの発言ではあるのだが、どこかしらにこんなの漫画なんだからどうでもいいだろ、っていう乾いた場を締めるツッコミ的なニュアンスもある気がする。

そして作中では悟空が仙人の弟子となり仙猫の弟子となり、ついには神様の弟子となってその神から「私の後を継いでくれ」とまで言われるようになるわけだが、その展開は多分鳥山明的にはその後のサイヤ人としてのバトル展開が主流になるとは思っていなかっただろうし、兄であるラディッツをやっつけて完結くらいのノリだったのではないのかと思うので作品の落としどころとしては悟空が浮世を離れた神仙としての境地に至るというという感じの最終回を考えていたのではないだろうかと思う。あくまで想像ではあるが、そう考えると悟空の“ま、いっか”はある種の仏教的諦観のようにも思えるのである。諦めるという言葉にはギブアップ的な意味でマイナスイメージが付与されているような気もするが、仏教的には「明らかに観る」ということである、ありのままをそのまま受け入れるということでもあるのだ。起きたことは起きたこととして受け止めて、その上で先に進む。時には怒りに身を包まれることもあろうがそんなときは自分を客観視して“ま、いっか”と思ってしまえ。何でもかんでも背負って苦しむよりはそっちの方がよっぽど楽だぞ、と『ドラゴンボール』だけでなく『COWA!』でも『サンドランド』でも鳥山明はそういうことを描いていたのだと思う。だから『ドラゴンボール』の最終盤でベジータが言ってた「あいつは勝つために戦うんじゃなくて負けないために戦うんだ」というセリフもそういうことなんだろう。

それを踏まえるとね、どう考えてもクソ映画でしかない『DRAGONBALL EVOLUTION』も、どうしようもないクソ映画であるが故に“ま、いっか”の境地に至るための修行の一環であり作家としての鳥山明が描いたものを肯定するためには受け入れざるを得ない作品なのだという結論に至らざるを得ないのですよ。だからね、結論としてのこの再審理の結果『DRAGONBALL EVOLUTION』は無罪です! まぁいいんじゃないかな! いやよくねぇよ! というもう一人の自分の声も聞こえてくるが、俺ではなく『DRAGONBALL EVOLUTION』の悟空でもなく原作漫画の悟空なら“ま、いっか”って言うと思うよ。

ふう~っ、これが言いたいためにえらい苦労したもんじゃわい。

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