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底抜け映画再審理

【底抜け映画再審理】第2回『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(2019)

第一回目が『ファイナルファンタジー』だったので第二回目はこれしかないだろう! ということでお題は『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』です。2019年の作品なので『ファイナルファンタジー』と比べたら皆さまの記憶にも新しいだろう。しかしその記憶というのは主にTwitterを始めとしたSNSなどでボロクソに叩かれて炎上して散々な評価のままクソ映画としての烙印を押されたという印象のはずだ。

本コラムのテーマは世間的にはクソ映画だと思われている作品を再考してそんなことはないぞ! 面白いところもあるぞ! ということを示したいというところなのでそういう作品こそ望むところなんだよ、と言いたいのだがこの記事を書くために見直してみると劇場公開時に観たときよりもつまんない映画だったので頭を抱えてしまった。いやつまんないとか言うな! つまんない映画でも見方を変えると面白さを発見できるよ、というテーマなんだから!

では本作の面白さとは何なのだろうか。先に結論を言ってしまうと本作は片思いの悲恋映画として秀逸である。

順を追って説明するために当然のようにネタバレ全開で書くが本作がボロクソに評価された主な原因は作品の終盤に判明する「実はこのドラクエ世界は劇中劇的にVRゲームで主人公が疑似体験していただけのものだった」という設定であると思う。正直これは失笑されても仕方ないというか、2019年にもなってそんな古典的なSF小説みたいな手垢塗れのメタネタを使うのかよと言われても仕方ないところではあると思う。見返してみると結構ちゃんとそのオチに対するネタフリというか伏線はしっかりとあって、映画の最初のシーンが『ドラクエ5』のオープニングそのままのドット絵から始まるというのもその設定を示唆しているものだとは言えるであろう。他にも勘の良い観客ならピンとくるような描写やセリフはある。つまり映画としてはかなり真っ当に描写を重ねつつ終盤の大オチへと向かうわけである。序盤の展開が性急すぎるという文句に対しても理屈としては納得できる回答はある。しかしそのように導かれる本作の終盤のオチは多くの観客には大不評で迎えられたわけだ。なぜなのか。

当時よく見られた文句や不満は、本作は古臭いメタネタを使って制作側が「TVゲームは空虚な遊戯でありそのような閉鎖的なものからは早く卒業して大人になれ」というTVゲームで育ったキッズたちが子供時代に何度も親から言われたであろうお説教を繰り返しているだけの下らないものである、という論旨であったように思う。確かに終盤の怒涛の展開に飲まれるとそういうイメージのままエンドロールに入ってしまうかもしれないが、それは実際には最後にやっつけられる敵の言い分であり基本的に本作はTVゲームが閉鎖的で空虚な遊戯であることに対して「そんなことはない! 俺が今までプレイしたゲームは自分の人生の一部になっているんだ!」と全肯定するものなのである。

ではなぜそれがブーイングの嵐で迎えられたのかというとだ、それはひとえに劇中劇のVR設定がSF的なアイデアとしてもカビの生えた古典的なものであったのと同じかそれ以上に、TVゲームというメディアが子供じみた現実からの逃避のためのお遊びである、という認識で本作が設計されているというその点が問題であったのだと思う。要するに本作は大人になってもTVゲームばかりやっている人間に対して「君が夢中になっているものはただの下らないプログラムに過ぎないけど、君が思っている以上にそれは文化的で立派な表現物だから胸を張って好きだと言っていいよ!」というようなことを言っているわけである。それがゲーマーに対するラブレターであるのは確かだが、しかしそれは酷く時代錯誤な内容のラブレターではないだろうか。そのようにTVゲームというのはいずれ卒業しなければいけないもの、という認識はせいぜい初代プレステやN64くらいの頃までのTVゲームに対するイメージで、その後の技術的な進歩もあってそれこそ映画にも引けを取らない表現が可能となり、ソニーやマイクロソフトのような世界的な大企業の主要な一部門となった現在のTVゲームという存在に対しては周回遅れも甚だしいという理解度であると言えよう。

そこが正に本作が報われない片思いの悲恋映画であると言える点である。つまりこの映画は基本的にはTVゲームに対して肯定的なメッセージを持っているにもかかわらず受け手である観客が受ける印象はせいぜい母ちゃんが一日一時間以上のゲームを許してくれた程度のことでしかないのだ。今さらその程度のことを喜べというのかというゲーマー側とのTVゲームに対する認識のズレが本作に対する失望の多くを占めているのではないかと思う。

そういうゲーム観に対するすれ違いに注目すればだ、真っ直ぐではあるが古臭い価値観で不器用な制作側とそれを冷めた目で見つめる観客側との報われない恋愛モノだということでその作り手と受け手の関係性自体を滑稽な悲喜劇として楽しめるのではないだろうか。いやどうかな!? そういう見方してもこの映画面白くなるかな? と思うところはあるが! でもメタ的構造を取っているような本作を見るときには作品と観客の関係性だってメタってみれば新たな視点が生まれるかもしれないわけですよ! しかもこれはネトフリ版だけだと思うが最終盤の字幕で仲間になったスライムであるスラリンの名が「フラリン」と誤表記されているのである! フラリンて! 今まで一度も間違えてなかったのに最後の最後にフラリンて! まるで観客にはフラれちゃったよトホホ…みたいな自虐ネタに見えるじゃないか! 多分単純に表記をミスっただけなんだろうが…。でもそういう見方をすりゃ本作だって面白いわけですよ! いやー、どうなるかと思ったができたな再審理。

というわけで『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は面白い映画でした。再審理終わり!

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