MOVIE TOYBOX

映画で遊ぶ人のためのウェブZINE

特集

【特集・イタリアンホラー 鮮血と腐肉の美学】壁の中の時間 ―ルチオ・フルチ試論

イタリアンホラーの二大巨頭といえばダリオ・アルジェントとルチオ・フルチ。そこに異議を差し挟むイタホラ好きはあまり存在しないのではないかと思うが、ふと考えるのだがアルジェントはその作品の研究と批評が進んでいるのにフルチは少なくとも本邦ではあんまりそのへん進んでないように見える。そこでせっかくだからこの場を借りてフルチ映画は何を描いてきたのか、ということを少し考えてみようと思う。

あのですねみなさんですねフルチに思想とかないよwって思ってるでしょう。あるから思想。思想なしに何かを作ることはできないの意識的にせよ無意識的にせよ。それを汲むのだって映画を観るたのしみの一つじゃないですか…まぁいいけど、とにかくフルチ映画を観ていれば頻繁に出てくるモチーフとかイメージというのがあって、フルチの作家性と一口に言っても切り口は山ほどあるわけだが、とりあえずその点に着目すればフルチが少なくともその作品についてあーだこーだと講釈を垂れられる(すごい日本語!)べき映画作家であることは理解してもらえるんじゃないだろうか。

じゃあそれは何かというと静止です。えらい抽象的なところから入ったね。いやでも静止としか言いようがないんだよフルチ映画の中核にあるものは、俺からすれば。それがフルチ作品では様々な形で変奏され偽装されあるいは『ビヨンド』のようにダイレクトに攻めてくるものもある。『ビヨンド』のラスト、光に導かれて冥府に迷い込む男女二人。冥府に動くものはなにもない。冥府に囚われると永遠に同じ時間を彷徨うことになる。なぜならこれは絵画の世界だからです。映画の冒頭で画家はこの冥府の絵を描いている。その行為の罰として冥府を恐れる村人たちは画家をセメントで固めて壁に埋めてしまう。静止を描いた罰としての肉体の静止。

フルチにとっての冥府というのは静止した空間のことで、死は肉体の静止として捉えられている。『サンゲリア』や『ビヨンド』に出てくるゾンビの元気のなさを見よ。まるで終電がないから漫喫でとりあえず四時間だけ寝てフリーのコーヒーとアイスを食欲がないからちょっとだけ食べてまた会社に向かう途中のサービス残業人間! 例を挙げれば、ロメロのゾンビは(『ランド・オブ・ザ・デッド』で生ける屍から屍の生へと変貌を遂げるにしても)死体といってもよく動く死体で、しばしばブードゥー・ゾンビ映画との断絶がロメロのゾンビ映画の特徴として語られるが、人間から意志を抜き取っただけで身体機能はわりとそのままというゾンビ・イメージはむしろブードゥー・ゾンビの延長線上にあり、言うならば奴隷主/妖術師を失った奴隷労働力としてのこのゾンビは目的はなくとも動くことは動くわけである。ここでのゾンビは機械化された人間であり、ロメロはその機械性を通して逆説的に人間性を肉体に付与しようとするわけだ。

『バタリアン』や『ナイトメア・シティ』などなどを嚆矢とする全力疾走ゾンビは世紀をまたいで『28日後…』『ドーン・オブ・ザ・デッド』でひとつの完成を見るが、全力疾走ゾンビがロメロのゾンビと異なるのは肉食いてぇとかそんな理由ではあっても行動の動機が明確なところで、ロメロのゾンビが機械/人間の対立軸を表現するとすれば、21世紀型の全力疾走ゾンビが体現する対立軸は動物/人間である。『28日後…』の物語の発端が動物実験であったことは示唆的だ。ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の原型になった『地球最後の男』と原作を同じくするウィル・スミス主演作『アイ・アム・レジェンド』では吸血ゾンビが社会的な動物として描写されていたことも思い出そう。

こうした主流派のゾンビはいずれも生に存在の基盤を置いている。機械と人間の間に位置するにしても動物と人間の間に位置するにしても、ともかくその曖昧な領域でどっちつかずのまま生きているのが主流派のゾンビであり、そこにゾンビ映画のドラマは生まれると言っていいほどだが、フルチのゾンビはそういうのではまったくない。その人の回りだけ時間が止まってしまったのでその人も静止している、というありえない状況を想定するとして、それを観測する人は止まった人を生死の二分法では語れないハズである。時間が再び動き出せばその人はまた普通に動き始めるわけだから死んでいるわけではないし仮死ですらない。しかし生きているかと言われれば生命活動の停止したものを生きているとも言えない。そんな状況に置かれた人間に対しては生を問題にすることさえできないんじゃないだろうか。

『サンゲリア』以降たびたび(ブルーノ・マッティとの共同監督作である『サンゲリア2』を除く)フルチの作品世界に現れるゾンビはこんなようなもので、『地獄の門』の幽霊ゾンビや『墓地裏の家』のフロイトシュタイン博士、『ビヨンド』の冥府の死者は生きているわけでもないが死んでいるわけでもない、ただどこか特定の呪われた場所で永遠に静止しているだけなのである。登場人物はその場に足を踏み入れたことで静止ゾンビを動かしてしまうが、それが止まった時間を外から動かすことではなく、自身も時間の止まった場に入り込むことでの見かけの静止の無効化であることは、ゾンビを見ると固まってしまって動けなくなる『サンゲリア』や『地獄の門』のゾンビ被害者の方々や『ビヨンド』の卓抜なラストシーンによく表れているように思う。時間が停止した場の中にいる人間は外から見れば静止していても、本人たちは自分が止まっているとは感じられないのだ。だから、フルチ映画の残酷描写はいかに華麗にして過剰であっても観る者に何の感情を喚起することもないような、被写体への冷めた視線を保っている。生が存在しないところに死は存在しないのだから、そこには肉体の破壊があるだけで、死の恐怖はないのである。

こう考えたときに浮かび上がるのがフルチのポーへの傾倒っぷりで、『恐怖! 黒猫』という直接の原作映画化(シナリオはそうでもない)もあるが、『地獄の門』では『早すぎた埋葬』をパク・・・オマージュしているし、『黒猫』の壁埋めネタは『ビヨンド』や超能力ジャーロの『ザ・サイキック』でも採用している。なぜポーのネタをそんなに使いたがるのか。『ザ・サイキック』主人公のジェニファー・オニールは予知能力を持っており、その予知夢の中で自分が壁の中に埋められる光景を目にするのだが、予知夢であるから物語は紆余曲折しながらもこの避けられない「埋葬」へと向かうことになる。ある意味、主人公は物語の最初の時点で既に死んでいるわけで、物語は始まった時点でもう終わっている。これは『マッキラー』と並んでフルチのジャーロ代表作である『幻想殺人』でも形を変えて登場するフルチ流の倒叙ミステリー手法で、観客は登場人物が生きるか死ぬかではなく、あらかじめ死や崩壊の決定づけられた、つまりは時間の静止した登場人物がいかにしてそこに至るかを観ることになる。

どうもフルチのポー趣味の理由はそこにありそうである。ポーは恐怖の対象そのものではなく恐怖の予兆を執拗に描く。その代表的な作品のひとつであるところの詩『大鴉』では恋人を失った男のもとに真夜中一羽の鴉が現れ、そしてただ一語の言葉だけを幾度も繰り返す。「もう、ない」。なにが「もう、ない」のか?男はそれを理性では知っている。恋人が「もう、ない」のだ。けれども彼の感情はそれを認められずに、しかしその予感だけは感じながら鴉と一方通行の会話を続け、思慮に耽り、ついには――「もう、ない」。探偵小説のプロトタイプにしてこれまで多くの精神分析家が分析を試みてきた『盗まれた手紙』も見てみよう。盗まれ隠された手紙を探偵が探すきわめてシンプルなこの物語はある一点で不可思議のベールを永遠にまとうこととなった。手紙は、誰もが様々な場所を探しても見つからなかった手紙は、盗人の私室のデスクの上にただ他の書類と混ざって雑然と置かれていたのである。それは最初からそこにあったのだ。にも関わらず探偵デュパンを除いて誰一人そのことに気付くことはできなかった・・・ここに『大鴉』との構造上の類似を見出すことは難しいことではない。『大鴉』の主人公が妻の死という事実を直視できなかったのと同様に、人々は手紙の発見の予兆に取り憑かれ、手紙そのものを見ることはできなかったのだ(余談ながらフルチがポーに並んで度々引用するH・P・ラヴクラフトもまた恐怖の対象ではなく予兆に傾注する作家であった)

イタリア成人映画界のスピルバーグこと(誰も言ってない)ジョー・ダマトと組んだにも関わらずなにひとつおもしろくないフルチの遺作『ヘルクラッシュ! 地獄の霊柩車』はポーに傾倒するフルチ流の倒叙ミステリーとして観るなら確かにこの映画作家の遺作に相応しい作品と言える。これは超弩級のネタバレですが主人公死んでます。オチを隠す気がなさすぎて観れば誰でも開始3分でわかると思うのでネタバレの意味が無いネタバレですがこの主人公は自分が死んでいることに気付かずに延々退屈な自動車旅を続ける。度々挿入される霊柩車とのカーチェイスっぽい場面は毎度同じような・・・というか同じで同じフィルムを何回も使い回している。これぞまさに予兆の映画!死の予兆だけが延々と反復され、自身の死というただ一つの簡潔明瞭にして自明の事実から逃避し続ける、静止した時間を描いた映画じゃないか!いや、俺はそこそこ本気で言ってるんだよ。

『ヘルクラッシュ』はアメリカン・ニューシネマの極北『断絶』に似ている。もう終わっているのに、あるいは終わっているからこそ意味も無く無気力にどこか遠くへと車を走らせることしかできない無力な人々。どうせそのどこか遠くにだって何もないことは知ってる。そうしたニューシネマの多くに通底するニヒリズムは『バニシング・ポイント』や(これは邦題だが)『俺たちに明日はない』のタイトルが端的に言い表しており、それはニューシネマの当時の主要な観客と思われる反体制的な若者たちがニューシネマに行き詰まりの無力感を、既に終わった人々の終わりへの過程を、そこからそれ以上先に進むことのない静止した時間の中で、走っても走っても静止しているように見える人物を、そのドラマなきドラマを求めたということでもあるだろう。ふつう「ドラマ」というのは時間と共に進行するものだが、多くのニューシネマで時間は弛緩してあまり意味を成さない。だからドラマもあまり生起しない。これは『ヘルクラッシュ』で頂点に達する後期フルチ映画の特徴とおんなじなのではないだろうか。

実際、フルチのマカロニ・ウエスタンはニューシネマの影響が端々から窺えて、とくに負け犬たちのロードムービー『荒野の処刑』はニューシネマ色が色濃い。社会からつまはじきにされた人間たちのあてどない逃避行はそれでもカトリックへのあてこすりも滲む微かな希望を残したものであるが、終わりへの旅という点ではいかにもニューシネマ的で、身も蓋もない現実の受け入れと現実の超克という相反する志向を挫折の出来事によって強引に接合したのがニューシネマという映画運動であるとすれば、フィルモグラフィー上ではリアリズムのタッチでカトリックの欺瞞とジプシーの受難を描いた傑作ジャーロ『マッキラー』とリアリティとかどうでもよくなった傑作『サンゲリア』の間に位置する『荒野の処刑』は、フルチのフィルモグラフィーにおいて初期のドキュメンタリーや風刺劇、艶笑喜劇やジャーロの属するリアルな作品と、後期のホラーを中心にした非リアルな作品の橋渡しのように見ることもできる。とすれば『ヘルクラッシュ』と『断絶』が似ていてもそんなに意外なことではないのだ、実は。フルチの映画にはニューシネマの血がずっと通っていたんである、と例によってひとまず断言してしまおう。

ここで唐突に評判はそんなよろしくないが個人的には気に入っているフルチ映画のコーナー。その1は『マンハッタン・ベイビー』。これは何がよいかというとプロット的には安い『エクソシスト』でしかないので別におもしろくないですが映像的にはフルチとシュルレアリスムがおそらく最も接近した作品であり、ざっくり言えば砂漠に人間が呑まれる映画だが、砂漠はシュルレアリスムの主要なモチーフであると同時に現代思想家のジャン・ボードリヤールがその名もズバリ『アメリカ ―砂漠よ永遠に―』というアメリカ滞在エッセイを書いているように、アメリカの裏代名詞でもある。砂漠の中に蜃気楼のようにラスベガスが建っているアメリカの超現実的現実。

『マンハッタン・ベイビー』は呪われキッズの家の中が砂漠になったりそこに足を踏み入れたオッサンが突如砂漠にワープしたりと珍奇な恐怖(なのか?)描写が連打される映画だが、存在の静止を主題に据えているとしか思えないフルチがその描写の帯びるシュルレアリスム的な異化作用に無自覚であったとは考えにくい。砂漠には入り口もなければ出口もない、方向もなければ高さもないし、そこに人間の時間はない。砂漠は人間の存在を解体するどこでもないいつでもない場所であり、その無時間の空間に人間を閉じ込めるものだ。砂漠とは少し違うかもしれないが、ダリの例の有名な絵画『記憶の固執』で時計が溶けていたのは不詳の荒野なのだった。

『マンハッタン・ベイビー』がシュルレアリスム映画を目指した説を補強するお気に入りフルチ映画その2は『怒霊界エニグマ』です。というのもこちらは台詞にも出てくるのですがマニエリスムが映像面の主題になっており、恐怖描写もマニエリスムの特徴として数えられる旋回運動を意識した渦巻きカタツムリが人体にビチャーと張り付くとかマニエリスム絵画を眺めているうちに絵が動き出して襲ってくる(これは『マンハッタン・ベイビー』の剥製の鳥が人を襲うシーンに通じる)とかなのだが、これこれの怪異の原因はなんじゃろなと探ると浮上してきたのが事故で昏睡状態に陥ったいじめられ少女の見る夢。夢の中で少女は自分をいじめた奴らに復讐をしていてそれがなぜか現実化してしまったというわけで言わなくてもわかると思いますが『マンハッタン・ベイビー』がパチモノ『エクソシスト』なら『エニグマ』はパチモノ『キャリー』、しかしそんなことは重要ではなく眠りによる無意識への接近と夢の具現化というシュルレアリスムの手法がマニエリスム的混沌(これはフルチ映画全体にも言えることではないだろうか)の中で明確に認められる点が『エニグマ』の面白さ。フルチが知っているかどうかは知らないがカタツムリの上で戯れる天使の彫刻をダリも残しているのである。

フルチのシュルレアリスムへの関心は俺を異端の思想家ヴァルター・ベンヤミンの世界へと誘う。というのもシュルレアリスムの革命性(これは比喩的な意味ではない)を高く評価していたベンヤミンは、ユダヤ神秘主義の影響を多分に受けて静止した時間に救済の可能性を見ていたからだ。もしも歴史の天使がいるならば、とベンヤミンは書いている。

彼(※歴史の天使)は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局(カタストロフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

『歴史の概念について』浅井健二郎 訳

直接的に論じているのはブルトンの『ナジャ』だが、その念頭にはシュルレアリスムの祖ウジューヌ・アジェの無人の街景写真が置かれていると思われるエッセイ『シュルレアリスム』において「〈古びたもの〉のうちに現れる革命的エネルギーに出会ったのは、シュルレアリスムが最初である」としたベンヤミンは古書の蒐集家としての顔も持っていた。その集大成が未完の『パサージュ論』であり、これはベンヤミンが蒐集したパサージュ(19世紀フランスのアーケード街の様式)に関する様々な切れ端のテキスト、学術的価値や教育的価値や美術的な価値がなく、属する場を失ってただ時代と共に忘れ去られるものと一般に考えられている「古びた」テキストによって構成されている。〈古びたもの〉とは忘れ去られたもののこと。誰からも見向きもされなくなったガラクタのこと。時間や空間から切り離されて孤立したもののこと。

フルチ映画においては『サンゲリア』を筆頭にこの忘れ去られたものが突如として復活し世界を「革命的な」崩壊へと至らしめるが、では〈古びたもの〉の持つ革命的エネルギーとはいったいなんなのだろうか?上の引用を踏まえれば、それは安らぎに思える。時間の静止した〈古びたもの〉のまとう安らぎが、変化に次ぐ変化、それを進歩と呼ぶなら進歩に次ぐ進歩に対してときに膨大な反動力を生むことは、様々な分野でこれまでのやり方を急激に刷新せざるを得なくなったコロナ禍で反マスクや反ワクチンなど様々なカウンター運動が生まれたことから類推的に理解できるんじゃないだろうか。たとえば廃墟のようなものを考えてみる。誰にも手入れされず見向きもされない廃墟は、しかしそれでもそこに存在している。その事実は進歩主義者の語る未来のユートピアを無効化するに充分だろう。

何もせずともそれは既に、あるいは常に、『盗まれた手紙』のように目の前に現前している。法による保護を受けず、誰にも所有されることなく、歴史からは抹消され、それについて語る者もいない・・・廃墟はそれでもそこに存在し続ける。それは生物の死に縛られた限定的な生を超える永遠の生なのではないか・・・ここで、〈古びたもの〉の放つ安らぎは、進歩に対するラディカルな抵抗力へと、革命のエネルギーへと反転するのである。なぜなら、進歩は〈古びたもの〉に永遠の生があるなどとは決して認めないから。ひとたびそう認めてしまえば人が進歩を志向する動機は失われてしまう。〈古びたもの〉に触れることはあらゆる種類の進歩――それは人間を常に新しいタイプに分類し直し生を細分化することだ――を打ち砕く行為なのである。

もっとも、ベンヤミンが〈古びたもの〉に感じ取る安らぎはカウンター運動のような集団的なものではなく徹底して個人的なものであり、その個人性こそがベンヤミン哲学の礎になっている。カウンター運動も組織化されれば別方向の「進歩」に結局は向かってしまうわけで、そうした集団的な流れすべてに抗おうとするのがベンヤミン哲学といえる。

蒐集家の幸福、私人の幸福よ!シュピッツヴェーク風の仮面をかぶって、ひとがあまりよくは言わない生活を続けてこられたこの人物ほど、あれこれと詮索もされず、気分よく過ごしてきたものはいません。なぜなら、彼の内部に妖精たちが、少なくとも小妖精たちが棲みつき、そのしからしむところにより、蒐集家にとっては、つまり――私は真の蒐集家というものをよく知っています――本来あるべき蒐集家にとっては、所有こそ、そもそも事物に対してもちうる最も深い関係なのです。とは申しましても、実は妖精たちが彼の内部に生きていたのではなく、彼自身のほうこそが、この妖精たちのうちに棲まっているものにほかならなかったのです。

『蔵書の荷解きをする』浅井健二郎 訳

これを補足するベンヤミンの盟友、思想家テオドール・アドルノによるベンヤミン評を見てみよう。

石化、あるいは凍結、あるいは腐敗した文化の在庫品が、文化において故郷を想起させる生気を放棄した一切のものが、化石あるいは植物標本室の植物のように彼に語りかけたのである。
〔…〕
彼を魅惑するのはアレゴリーにおいてそうであったように、石化したもののうちにおいて凝固している生を、覚醒させることであり、それに留まらず生命あるものが夙に過去のものと化して、太古史に属すものとして出現し、突如として意味を手渡すところまで、生命あるものを観察することなのだ。

アドルノ『ベンヤミンの特性描写』大久保健治 訳

別の箇所ではベンヤミンの眼差しをメデューサに喩えるアドルノだが、その意味するところは、〈古びたもの〉の中に自身を見出し、〈古びたもの〉を通して自身の思想を語り、そして〈生あるもの〉もまたそのように眺めることで〈生あるもの〉の表面的な新しさや独自性を剥ぎ取り〈古びたもの〉の一覧に加えてしまう、ベンヤミンのなかなかおそろしい批評の手法である。それは哲学者ライプニッツの言うところのモナドと似ているかもしれない。電子顕微鏡のすごいやつで物体を観察すればそれが原子の結合によって形作られていることがわかる。その集合が世界だが、それに対して単子とも訳されるモナドは他のモナドと結合されない、それでいて世界を構成する永遠に消滅することのない最小の単位(とライプニッツほかは考えた)。この孤立したモナドはそれぞれが世界全体を内に秘めているが、世界の開示の度合いや角度は各モナドで異なり、それによってすべてのモナドの集合がこの世界ということになる。ベンヤミンの宇宙では、言うならば〈古びたもの〉がこのモナドであり、すべての〈古びたもの〉はそれぞれ別の開示度合いと角度からベンヤミンという人間を表現するのだ。ベンヤミンのメデューサの眼で見つめられれば、どんなものもベンヤミンの言葉を代わりに発するゴーレムになってしまうだろう。そしてそれは同時に、不滅のものとなるのである。

それにしても、アドルノのベンヤミン評はほとんどフルチを評する言葉に俺には見える。当然、アドルノとフルチは生きた時代も異なるのでまったく関係ないが、たとえば『墓地裏の家』の、居間のカーペットの下に遠い昔に死んだはずのマッドサイエンティスト・フロイトシュタイン博士の墓石が埋め込まれており、その下には屍肉の転がる異空間が広がっている・・・といったシュルレアリスティックで凄惨な光景を思い出すときに、ベンヤミンの見ていたビジョンとフルチのそれは奇妙に重なる。なんとなればこの映画は少年が一枚の古びた写真を見つめるところから始まるのだ。やがて少年がその意に反して移り住むことになるこの家、居間の床にどういうわけか墓石の埋め込まれた元フロイトシュタイン邸を写し取ったこの写真を見つめていた少年は、そこに存在しないはずの少女の姿を見出す。そのときに古びたもの・・・死んだはずのフロイトシュタインが少年の声ですすり泣き少年の残酷な無意識を反映する操り人形として蘇り(フロイトシュタインの名は精神分析の祖フロイトとフランケンシュタインを組み合わせたものだ)、少年の属する小さな世界を家族皆殺しの形で崩壊させ、彼を静止した時間の中に永遠に閉じ込めてしまうのだ。しかし、その静止した時間の中で少年は写真の中の少女と共に笑い合って幸福そうなのである。引っ越しという子供にとっての大きな変化を拒絶して、「ずっとこのまま」の世界を望んだ彼は。

シュルレアリスムとベンヤミンを経由して再度フルチ映画のニューシネマっぽさを眺めれば、フルチがニューシネマに何を見、そこから何を取り出したかが一層明確になるように思われる。それは変化のもたらす強烈な痛みと、時間の静止による変化への革命的抵抗(ニューシネマの多くが若者のモラトリアムを描いていたことを思い出そう)、言い換えれば、死による変化の拒絶と、それがもたらす安らぎである。それがニューシネマであればニヒリスティックなバッドエンドになるであろう挫折の出来事は、しかしフルチ映画においては救済のニュアンスを帯びる。主人公が為すすべなく、というよりも自ら冥府に引き込まれていく『ビヨンド』のラストに満ちているのは恐怖でも絶望でもなく、安らぎなのだ。そして、安らぎであるからこそフルチはそれを恐怖として、絶望として捉えるのである。もし死ぬことで現世では得られない安らぎが得られるとしたら!日本が誇るSF作家の星新一は、あの世は案外居心地が良い場所らしいと思い込んだ人類が伝染病のように集団自殺を遂げていくおそるべき物語を遺している(ところで、この短編『殉教』は黒沢清の『回路』とよく似てはいないだろうか?)

書いているうちに俺の脳内もフルチ的混沌と無時間性で満たされてきたのでとりあえずそれっぽくまとめるとすれば、フルチとは何者か、フルチ映画とは何か、それは…なんか結局わかんなくなっちゃったね。だからまぁあれだよ、それぐらいフルチの作品世界は広く深い。これまで静止を手がかりにフルチの映像世界を脳内探検してきたがそんなものに作品のすべてが収まるほどフルチは薄っぺらい映画作家ではないことがよくわかった。

だがあえて結論めいたものをひとつのロマンティックな、あるいは悲劇的な仮説としてここに記しておくと、フルチがそれまでの現実に軸足を置いたドラマやコメディではなく我々のよく知るフルチ映画を静止のイメージと共に綴るようになったのは、1969年の妻の自殺の後からのことであり、フルチにとっての静止とはガン闘病を苦にしてガス自殺を遂げた妻の死の経験なのではないか、とその作品からは想像を膨らませることができる。外傷のない今にも語りかけてきそうな、しかしもう二度と動くことのない静止した妻と対面した瞬間の、永遠にも思える時間。思えば『恐怖! 黒猫』は死んだ妻との交信を試みる男の話であり、『地獄の門』には仮死状態のまま棺桶に入れられた女を男が救い出そうとするシーンがあった。『地獄の門』にせよ『サンゲリア』にせよ死んだ妻(恋人)がゾンビとして蘇りかつての夫の前に現れるというシーンがあったし、そのとき、夫はなんの感情も浮かべずにただ自分を見つめる死せる妻の眼差しに凍りつき、動けなくなってしまうのだ。

自作に登場するゾンビに込められた寓意をフルチ本人はドキュメンタリー映画『フルチトークス』で「権力者」と語っている。それも一面ではそうなのかもしれないが、もしも妻の死という瞬間が壁の中の静止した時間としてフルチにとり憑いたのだとすれば、フルチの描くゾンビにはフルチの抱えるトラウマ的な罪意識も見えてくる。静物画は英語でStill Lifeという。動きはしないがまだ生命を保っているもの。まだ生命は保っているが、永遠に動きはしないもの。アルジェントの助力で実現一歩手前まで行きながらも結局は制作されることのなかったフルチの生前最後の企画が『肉の蠟人形』のリメイクであったことは示唆的だ。なにせこれは人間を生きたまま蠟人形にすることに憑かれた男の話なのだから。そこには毒々しいサディズムと表裏一体の、愛する人に死なないで永遠に生きて欲しいという切実な願いも見え隠れしないだろうか。

それは、それを見るものを見つめ返し、無言のうちに断罪する。それは、それを見るものの手を引き、壁の中に誘う。それは、それを見るものを呪い、自らを見るものを呪う、それにしてしまう。それは救済であり、革命であり、しかし同時に、死であった。そんなふうに眺めたときに、フルチ映画は今までとは少し違った姿を鑑賞者に見せるのではないかと思う。その姿は残酷で優しく、エモーショナルで冷たい。

返信する

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ゆるふわ映画感想ブログ映画にわか管理人。好きな恐竜はジュラシックパークでデブを殺した毒のやつ。Blueskyアカウント:@niwaka-movie.com