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博多ゾンビ紀行

【博多ゾンビ紀行】第16回 デモンズ2のジェイコブ、チェーホフの銃、そしてジム・ジャームッシュ。映画の「必要性」とは何か?

今回はいつものレビュー形式から趣向を変えてゾンビ論を語りたいと思う。

何を語るのか?それは『デモンズ2のジェイコブ現象』である。

これを聞いてゾンビに詳しい人は、「デモンズ2」の「なに」だって????となってしまうだろうし、ゾンビにも詳しくない人は、「なに」の「なに」???????となってしまうだろう。それもそのはず、これは僕が勝手に生み出した概念だからである。そんな概念を今回は丁寧に説明していくぞ。

まず、デモンズ2とはなにか?

“キュービック・ショック”という謎キャッチコピーが有名なランベルト・バーヴァ監督による1985年の映画『デモンズ』
劇場でゾンビ映画を観ている人たちにゾンビが襲いかかってくるという斬新な設定、凝った特殊メイク、容赦ないゴア描写、そしてソリッドなストーリー展開などで人気を博した映画である。

なお、この”キュービック・ショック”はこの入れ子構造による没入感を指した言葉という事なので家のテレビで観ると”キュービック・ショック”ではないという罠があるぞ!しかしその問題は続編である『デモンズ2』なら解決する。なぜなら『2』はテレビからゾンビが出てくる映画だからである!じゃあ映画館で観た人たちは・・・という疑問はスルーさせていただくとしてそんな感じで前作のイズムを継承しつつ設定を変えた映画が『デモンズ2』なのだ

そして僕が今回取り上げたいのがこの『デモンズ2』に登場したジェイコブという男である。そもそもこいつは何者なのか?

ジェイコブについて

高層マンションで開催されていた少女サリーの誕生日パーティー中に厄介者ジェイコブがやってくると電話がくる、サリーはそんなジェイコブを下で待って追い返せとメガネ君を外に出す。この不幸なメガネ君が結果として超幸運だったとわかるのは数分後の話。さあ来ましたテレビからゾンビ発生地獄絵図!その頃メガネ君は下でジェイコブを待ち続けており・・・

そんでその後もB級ゾンビ映画の例によって愉快な大惨事が描かれるわけだがその合間合間にジェイコブを待ち続けるシーンが時々挟まれる。これが待っても待っても全然来ない。この惨劇とのギャップのシュールさが面白くてたまらない。
そんでようやっとジェイコブがマンションに自動車で着いたと思ったら自動車とぶつかり事故を起こす。ここまで書いて察している方もいるかもしれないが、これでジェイコブ君の出番は終了である。

なぜ出した????せめてド派手に血でも内臓でも噴き出して死ねば見せ場になるのにただただこれだけで出番が終わる。あんだけ尺とったのに?

これを見て連想するのは“チェーホフの銃“という概念である

チェーホフの銃

“チェーホフの銃“という概念は“キュービック・ショック“よりは有名な概念と思われるが一応説明しておくと観客の混乱を防ぐため撃たない銃は舞台に出してはならない…という原則である。Twitterなどではこれがセクシャルマイノリティなどと結び付けられスッカリ悪名高い概念となってしまっているが、一方これは大事な原則である。特に90分という短い時間、狭い空間で魅せるホラーで有ればなおさらだ。ゾンビ映画でデカい刃物を出すならそれでゾンビの頭をかち割らなければならないのだ。別に電動丸ノコが壁を破壊するだけでそれでゾンビを一切殺さなかったアーミーオブザデッドの悪口は言ってない!

さて、『デモンズ1』でもこの原則に沿ったストーリー展開がなされていたと思う。映画館という舞台設定は入れ子構造という形でしっかり活かされるし、一見関係なさそうに思えたヤンキー集団はしっかり場をかき乱し状況を悪化させるし、序盤にサラッと登場した日本刀はちゃんとゾンビの頭部を破壊するために使われる。

このようにいかに少ない要素を活かしながら無駄なく展開させるかがB級ホラーの見どころでもあるのだ。『2』でも基本的にこのやり方が継承され、無駄な登場人物も要素もなかった印象である。

しかし、ジェイコブ以外は・・・こいつの存在が映画全体を歪ませるのである。

ここで、『バウンティ・オブ・ザ・デッド』という映画の話をしたい。
この映画は最近Z級映画界で多い見放題配信サービススルー映画であるが、5人組の賞金稼ぎがある犯罪者の男を追って森へ入るがそこでゾンビに襲われ・・・というあらすじだ
このあらすじを見てちょっと面白そうと思った人もいるかもしれない。(いたという前提で話す。)

その期待の中身を分析するならばおそらく「賞金稼ぎ」要素と「ゾンビ」要素、この2つが一体どう関わるんだろう?どんな化学反応を起こすんだろう?という期待ではないか?
結果から言えばその期待は裏切られることになる。うん知ってた。

賞金首は早々にゾンビに殺され、大したサスペンスは起こらず、普通のゾンビものに、それもあんま面白くないタイプのやつになってしまう。結局そこそこのゴア描写と片乳首喰われ女ゾンビというあんま見たことないゾンビが出てくる以外はあんま見どころの無い映画である。

それはやはり“チェーホフの銃“原則を守らなかったというところが大きいのではないか?出した要素はしっかり活かす形で消化しなくては微妙な作品になってしまうものだ。何故そうなってしまったかは僕には分からない。予算不足によるトラブルか、話より見せ場を優先したか…色々推測は出来るがZ級映画の作り手の思考など僕には到底辿り着けないだろう。

そんな原則を踏まえた上で考えれば、この『デモンズ2』のジェイコブという存在がこの映画の歪みを象徴していることがよく分かるのではないだろうか?上述のようなまともではない映画とは違い、全体的にまとまったつくりのデモンズシリーズなだけになぜ出たのか本当によく分からんキャラなのだ。

しかし僕はなぜかこのジェイコブという存在が好きで仕方がない。全体的にまとまっているが故に浮いているジェイコブという存在…それがこの映画をより好きにさせるのだ。

まあ要は新概念「デモンズ2のジェイコブ現象」とはチェーホフの銃ということである。じゃあ新概念なんて作らずチェーホフの銃と呼べばよろしいのでは?なんてこの記事の存在意義を無くすツッコミは無視させていただく。

ジム・ジャームッシュという監督について

そんなジェイコブのような存在をおそらく意図的に生み出そうと試みた作品がある。それがジム・ジャームッシュ監督の『デッド・ドント・ダイ』である

ジム・ジャームッシュとはどういう作家か?まず想像出来るのは『ナイト・オン・ザ・プラネット』『コーヒー&シガレッツ』のような何も起きない淡々とした会話劇だろうか。しかしそれはあくまで一面である。そんなオフビート会話劇の一方で『ゴースト・ドッグ』『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』のように殺し屋、吸血鬼などと言ったジャンル映画的な要素を自らの作風に換骨奪胎し語り直す。そういう試みを行う作家であるように思う。
そんなジャームッシュがゾンビ映画を手がける時に何を行ったか?それはジェイコブの増産である。

いやジャームッシュがジェイコブを意識していたか、そもそも『デモンズ2』を観たことあったのかは知らないが、結果としてジェイコブのような存在を大量に生み出しているのだ。

あらすじとしてはとある田舎町で死体が蘇り始める…といったオーソドックスなものでありこれと言った主人公のいない群像劇スタイルでもある。しかしこの映画が特殊なのがこの群像劇に、群像劇のうまみが全くと言って良いほどないのである。キャラクター同士がすれ違いまくり全然絡み合わない。
しかしこのすれ違いが単なる技術不足にも見えない。中身を見ても明らかにスカす事を強調させた演出が多い。ホラーショップ店員が露骨に立てた恋愛フラグを完璧に無視するし、明らかに他のキャラの助太刀をする映画的役割があるであろう警官が市民を無視する、いきなり出てきた超然的存在の○○○は状況を全く良くしない…といったすれ違いを実感させるような描写が多いのだ。

ここでジャームッシュが何を描いてきたかをもう一回考えてみたい。「何も起きない」と先ほど述べたが正確には「起きそうで起きない」という感じではなかろうか。

例えば『ナイト・オン・ザ・プラネット』の1話では芸能マネージャーとタクシードライバーの少女が出会いスター誕生ものの導入っぽい展開になり、なにかが起きそうな雰囲気が流れるが、ドライバーの少女がそのフラグをバキバキに折ってしまうところでストーリーが終わる。パターソンでは一見何も起きない日常が続いているが、一方で不味い料理にバス故障に破局カップルにと常に何か破裂が起きそうな要素が並んでいっている。他作品でもすれ違いが多いのがこの監督の特徴である。

そしてそんな起きそうで起きない展開によるスカしの美学にその作品なりの哲学が隠されている・・・というのがジャームッシュの作風ではなかろうか。

『デッド・ドント・ダイ』の話に戻ろう。上述のスカしの美学をゾンビものに当てはめると何が起こるか?そう、ジェイコブの増産である。話に何の影響も与えず、なんで出てきたのかわからない、チェーホフの銃を擬人化したような存在・・・・それが『デッド・ドント・ダイ』の登場人物のほとんどである。

ジャームッシュはそんなジェイコブの増産で何を表現しようとしたのだろう?全然助け合わず何もできずただただ滅んでいく人類・・・そんな人類の分断と愚かさを持ち前のオフビートさで描こうと思ったのではないだろうか?そんなジェイコブまみれの映画を当然僕は好きで仕方がない。ただただユルく世界が滅んでいく最高の映画なのだ。

まとめ

さて、いかがだっただろうか。このようなジェイコブ現象というものはZ級映画を観ていると当たり前のように遭遇する。このように前後の繋がりから「必要性」というものを見出して映画を観る事は批評の軸となったり新しい発見をもたらしたりするものだ。こういったことを意識しながらZ級映画を観ていくのも面白いだろうし、それはA級映画でも同様である。しかしそんな必要性にばかり囚われるのも楽しくない・・・それを今回紹介した映画群が教えてくれるのだ。

この記事を今後の映画鑑賞の参考にしてもらえれば幸いである。

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