【映画の世界の片隅で】9人目 『ドゥームズデイ』のカーチェイスシーンの後ろの方ですごいノリノリで手を振っていた人
『ドゥームズデイ』を初めて映画館で見たときのことは忘れられない。まだ今ほどまでにはネットが生活を侵食していなかった2008年、チラシやエンタメ雑誌ぴあに載っている上映情報を頼りに新橋ガード下のジャンル映画二番館・新橋文化か浅草六区の洋画ジャンル映画名画座・浅草中映まで自転車で行って二本立てを見るのがその頃の休日の過ごし方。タイトルや短いあらすじぐらいは頭に入っているがどんな映画が始まるのかは実際に映画館で見てみないとわからない。最近では宮崎駿最新作の『君たちはどう生きるか』が内容を一切明かさないという驚きの奇襲的宣伝手法を取っていたが、そんなことをせずとも内容のわからない映画を映画館で見ることがその頃はまだ自然にあった。『ドゥームズデイ』はそんな時代、おそらくはそんなことが可能だった最後の時代に新橋文化で見たのだった。今はもう新橋文化も浅草中映も無い。
『ドゥームズデイ』の内容を手短に説明すれば、これは洞窟ホラー『ディセント』や狼男アクション『ドッグ・ソルジャー』を手掛けたイギリス・ジャンル映画界の俊英ニール・マーシャル監督が満を持して放ったSFアクションホラーである。近未来、謎のウイルスの蔓延によってイギリスは壊滅寸前。政府はスコットランドとイングランドの間に巨大な壁を建設することで強制ロックダウンを行い、スコットランドを見捨てることでイングランドだけはどうにか崩壊を免れたのであった。それから十数年。例のウイルスが隔離されたイングランドのスラムで再び発見され、ローナ・ミトラ演じる主人公の特殊部隊兵士は政府から壊滅したはずのスコットランドへの潜入を命ぜられる。実はスコットランドには生存者が確認されており、ウイルス環境下で生き延びた人間なら抗体を持っているかもしれない、というのがその理由。果たして壁の向こうの生存者とは何者か。そして無事抗体を持ち帰ることはできるのか。イギリスの命運を賭けた作戦が始まる・・・。
こう書けばなかなか真面目なB級SFホラーのようだがその内実はジャンル映画オタクのニール・マーシャルが主に80年代の数々のジャンル映画名作群のオマージュとパロディを詰め込めるだけ詰め込んだ超お金をかけた自主映画の如し、なにせローナ・ミトラと共にスコットランドに潜入するメンバーの中にはカーペンターとミラーという名前の人物さえいる。名前の元はもちろんジョン・カーペンターとジョージ・ミラーで、でっかい壁を建設してスコットランドを隔離するという発想はニューヨークを壁で囲って監獄にするカーペンターの『ニューヨーク1997』の、そして荒廃したスコットランドに生息する人食いパンクスのビジュアルおよび終盤のカーチェイスはジョージ・ミラーの代表作『マッドマックス2』の、それぞれオマージュとなっている。
さてこの映画、新橋文化の薄汚れたスクリーンで見たときにはもう夢中になった。これだ・・・これだよ!これが映画館で見たかったんだ!!世代的に俺が一人で映画館に通うようになった頃にはもうこんな80年代ジャンル映画的な映像世界はスクリーンから駆逐されていた。『ニューヨーク1997』や『マッドマックス2』に代表される80年代ジャンル映画の面白さ、それはとりもなおさず画面から漂うなんともいえない安っぽさではなかったかと思う。まだCGが本格的に導入されていない時代、ジャンル映画の監督たちがスクリーンに己の夢想を焼き付けるには実際にミニチュアなり怪物なりを作って撮影するしかなかった。当然、その手法には限界がある。『ブレードランナー』のように映画監督のビジョンに忠実な非常に精巧で大規模な近未来セットもないではないとしても、そんなものはごく一部のビッグバジェット映画に限られ、大多数の80年代ジャンル映画は予算の都合から映画監督のイメージする風景を高い精度で再現することは不可能だったといってもいい。
画面の端々に見えるその「大人の事情」はしかし、後追い世代の俺などには人間的な暖かみとしてむしろ好ましく映る。伊藤計劃がたしか『マトリックス』のブログ映画評で指摘していたように、ジャンル映画におけるCGの本格導入は映画監督の脳内ビジョンをロスや変形が少ない形でスクリーンに作り出すことを可能にした。それは作家主義的な観点に立てば好ましいことだろうとは思う。けれどもそこには映画制作のダイナミックな化学反応がない。映画監督や脚本家、SFXの職人や美術スタッフ、そしてもちろん役者やそのほか諸々のスタッフが時に和気藹々ときに侃々諤々しながら、妥協と達成と挫折と偶然を数え切れないほど積み重ねて、関わった誰もが予期しなかったような作品が奇跡的に出来上がってしまう。それが80年代映画の放つ面白さ=人間的暖かみであり、もちろんCG全盛の現代でも映画制作に化学反応(トラブルとも言う)は付きものだとしても、80年代ジャンル映画のようなダイナミズムは総じて生まれにくくなっているのではないかと思う。
それは80年代ジャンル映画にオマージュを捧げたこの面白い面白い『ドゥームズデイ』とて結局のところ例外ではなく、80年代ジャンル映画のあのテイストとダイナミズムを、と監督が意図している時点でその目論見は破綻しているとも言える。なぜなら80年代テイストとはその時代の映画の作り手たちが狙って作り上げたものではないからだ。だからこそ、映画の終盤にある『マッドマックス2』オマージュというかパロディのカーチェイスシーンにおいて、ピントも合わない画面の後ろの方で改造車を駆る人食いパンクスのエキストラが、メタルのライブかってぐらいノリノリで腕を激しく振りまくっているのを見た時に、「これこそが俺の世代の『マッドマックス2』だ!」と大いに感動してしまった。
なにせピントも合ってないくらいなのだし、演技指導はあったとしてもおそらくそれはそれは二言三言、監督もカメラマンもこのエキストラが重要な役柄だとはつゆほども思っていなかっただろう。事実重要な役柄ではないのだが、とにかくめちゃくちゃノリノリで腕を振っているのでちょっと面白くなってもうそっちばかり見ちゃう。これはニール・マーシャルはもとよりエキストラが意図したことでも絶対にないだろう。ここには80年代ジャンル映画にオマージュを捧げたこのハリボテ映画がその身に宿そうとした80年代イズム、あの化学反応、人間的暖かみ、面白さがあった。
後年ジョージ・ミラーその人がついに重い腰を上げて『マッドマックス』シリーズ正式続編『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を撮り上げたが、ミラーのビジョンに忠実に、画面の隅々までコントロールの行き届いたあの映画に、こうした80年代ジャンル映画の良さはなかったように思う。それは今では時代の徒花として映画の世界の片隅に追いやられた『ドゥームズデイ』のような映画の、注意深く見なければ見逃してしまうそのまた画面の片隅に、何気なく息づいているものなのだ。