【特集 北野/たけしの映画世界】北野武監督作全作レビュー(長編だけ)
2023年11月現在の最新作『首』も含めて北野武の長編映画監督作は19作。カンヌ映画祭60周年記念のオムニバス企画映画『それぞれのシネマ』の一編である短編映画『素晴らしき休日』(夏休みの映画館で子供がたけし監督作『キッズ・リターン』を見るだけのやつ)を加えれば監督作は20作になる。1~2年に1本ぐらいは映画を撮っているので、アーティスティックで過激な作風から寡作と見えて、実は多作な北野武。その作品群を時系列に沿って追っていくとなぜその作品がその時期に撮られたのかということが想像できてなかなか面白いのですが、今のところ北野映画の多くは配信解禁がされておりませんし、見るにはちょっとだけハードルが高い映画も少なくない。
ということでせっかくですし北野映画全作レビュー。これを読めばきっと最新作『首』に込められたたけしの思想がわかる・・・かもしれないと言えなくもない!
その男、凶暴につき(1989)
言わずと知れた北野武の衝撃的な監督デビュー作。野沢尚のオリジナル脚本はどうも時代相を取り入れたトレンディでアップテンポな刑事ドラマを想定していたようだが、たけしの演出はそのド反対で、たけしたち刑事が逃げる犯人を追うシーンやたけしがヤクの売人に何十発もビンタを食らわせる有名なシーンなど(マーティン・マクドナーの『セブン・サイコパス』にはこのシーンがそのまま引用されている)、シナリオ上は大した意味を持たない他愛のないシーンを延々引き延ばすオフビートさ。そうして弛緩した空気の中で突発的に爆発する感情や暴力は強烈にリアルで恐ろしく、一方で痙攣的な笑いも誘発する。暴力表現の見事さという意味ではこれが北野映画の頂点ではないかと思う。自ら死に向かって突き進むかのような刑事たけしの自滅的な振る舞いと虚無的な佇まいは、後のすべての北野映画の原点。
3-4X10月(1990)
たけし軍団大挙出演の監督第二作目は不穏なファンタジーであると同時に私小説的な物語でもある。映画は主人公の柳ユーレイ(たけし軍団)が他の軍団メンバーと共に草野球をやっている場面から始まるが、そもそもたけし軍団はたけしの草野球チームとして結成されたもの。バッターボックスに入ってもバットも振らずに三振を取られてしまうユーレイはチームメイトから「振らなきゃ始まらないよ」と呆れたように言われるが、これはたけしの口癖だったのか、ダンカンが脚本を書いたたけしの自伝小説の映画化『浅草キッドの浅草キッド』においても北野武を演じる水道橋博士が玉袋筋太郎に同じことを言っている。深作欣二の代打監督という立場上なにかと制約が多かったであろう前作に比べてこちらは脚本も自ら執筆し好きなものを自由に詰め込めたということだろう。ヌーヴェルヴァーグを思わせる実験的かつ遊戯精神に溢れた演出がそこかしこに散りばめられ、沖縄とヤクザの組み合わせは『ソナチネ』の、たけしの投影された柳ユーレイがもう一人の自分を想像する一種の夢オチというか妄想オチは『TAKESHIS’』の原型とも見れる。
奇妙なタイトルは野球のスコアボードを表したもの(つまり3-4のサヨナラ勝ち、と10月)。たけし自身は名言していないと思うが劇中の柳ユーレイとダンカンの関係性は東映実録路線の孤高の一作『沖縄やくざ戦争』での渡瀬恒彦と尾藤イサオを彷彿とさせ、後の監督作『アウトレイジ』においてたけし自ら演じた主人公の名前が東映実録路線の代表作『仁義なき戦い 広島死闘編』の人気キャラクター大友勝利(千葉真一)から取られていたことから、こちらも『沖縄やくざ戦争』にインスパイアされたものかもしれない。余白が多いので様々に解釈して楽しめる作品。
あの夏、いちばん静かな海。(1991)
前二作とは打って変わって暴力要素一切なし。台詞らしい台詞もなく、ドラマらしいドラマもなく、男の方(真木蔵人が好演)がサーフィンにはまった聾唖のカップルの一夏を描いた一種のバカンス映画であり、チャップリンの『街の灯』を思わせる古典的なラブストーリーでもある。カップルの女の方を演じた大島弘子もどこかサイレント期の大女優リリアン・ギッシュを思わせる古風な佇まい。2人でサーフボードを持って海に行く。サーフィンする。2人でサーフボードを持って同じ道を帰ってくる。そのなんでもないような風景の繰り返しが微笑ましくも美しく、同時にいつか必ずやってくる夏の終わりを静かに予感させて、痛ましく切なく。浦安あたりの灰色の海に誰もがいつか通り過ぎたかもしれないあの頃をこの上なく魅力的に描き出した、たけしの叙情詩人としての才能が爆発した一作だ。この作品から北野映画に参加した久石譲の音楽もすばらしい。
ソナチネ(1993)
後にキタノ・ブルーと呼ばれるようになる(そして案外早くその手法は捨てることになる)青味がかった色彩が死を予感させる中、沖縄やくざ抗争の助太刀を乞われた東京ヤクザのたけしは寺島進ら子分と共に沖縄へ。それはたけし組を捨て駒にしようとする上層部の罠だったのだが、たけし組はそんなこととはつゆ知らず、いやもしかしたらたけしは気付いていたのかもしれないのだが、欲と暴力の支配するヤクザの世界から一時的に逃避して沖縄のビーチで遊びにふける。だがヤクザ者たちの夏休みはいつまでも続かない。その終わりを知った時、たけしは死に向かって歩き出すのだった。
債務者と思われる男性をクレーンで海に沈ませたり引き揚げたりを繰り返すバラエティ番組的な暴力ギャグ、伏線らしい伏線や事件らしい事件もとくに出てこない弛緩した展開の中に突如入り込むドライな死、そして沖縄のビーチで笑顔を浮かべて拳銃ロシアンルーレットに興じるたけしのなんとも知れない凄み。赤い空を背景に魚が銛に刺さっている奇妙な映像に久石譲の哀惜感漂うテーマ曲が乗るオープニングからして尋常ではない世界に連れて行かれる初期北野映画の代表的傑作。
みんな〜やってるか!(1995)
前作『ソナチネ』で映画作家として一時的に燃え尽きてしまったのか、当初は北野武ではなくビートたけしの監督名義で発表されたこちらは『ソナチネ』の抽象的でアーティスティックな作風とは正反対のわかりやすいギャグ映画、AVを見てカーセックスがしたくなったダンカンがカーセックスをするため奔走しているうちに様々な事件に巻き込まれて最終的に巨大蠅となって東京ドームに設えられた世界最大級のウンコに食いついたのち、おケツに東京タワーがぶっささってしまう。
やっていることはめちゃくちゃだが北野映画特有の弛緩した間によりゲラゲラ笑える感じもなく、かといって次から次へと繰り出されるネタは空気感で笑わせるシュールギャグなどではなくスポーツ新聞のエロ四コマ漫画みたいな古風なベタギャグとパロディなのでクスクスとも笑えない・・・が、こうしたネタの数々は下積み時代のたけしが師事した深見千三郎のピンクコント(ストリップの幕間の軽演劇)に対するオマージュと思われるし、また劇中でダッチワイフのように扱われる女性たちにはこの頃のたけしの抱えていたかもしれない、女性の希求と表裏一体の殺意にまで高められたミソジニーが殺伐と投影されているようにも見え、これはこれでやはり北野映画。小学生みたいなエロ妄想→実践しようとして失敗→全然関係ない事件に巻き込まれる→再びエロ妄想・・・と横滑りしながら物語が破綻していく精神分析的な構成は、のちの『TAKESHIS’』『監督・ばんざい!』へと引き継がれる。
キッズ・リターン(1996)
『みんな~やってるか!』は1994年のバイク事故直前に完成したため事故後の映画監督復帰第一弾となったのはこの映画、そのタイトルが『キッズ・リターン』というのは北野武の復帰宣言なのだろうか。高校卒業後、とくにやりたいこともなくなんとなく入ったボクシングとヤクザの道でそれぞれ一時の栄光とどこまでも続くかに見える挫折を経験する親友同士の悪ガキ二人を縦軸に、その同級生の卒業後の冴えない進路を横軸に描くこの青春群像劇には、明治大学中退後に様々な職を転々としたたけし自身の青春時代が強く反映されているように思える。主人公がハマるボクシングをたけしは学生時代にやっていた。内気な同級生が就職するのはタクシー会社だが、たけしもまたタクシードライバーだった時期があった。いじめられっ子の二人組が弟子入りするお笑いの道は言わずもがな。
その二人組こそ実は映画の影の主役。主人公らが大人社会に渦巻く様々な誘惑に負け圧力に晒され次々と挫折や妥協をしていく中、いじめられっ子の二人組だけは決して社会に打ちのめされることなく一途に芸を磨き続け、めげることなく舞台に立ち続けた。青春の終わりと人生の悲喜こもごもを透徹したタッチで描く一見ドライな映画だが、その底には努力は(どんな形であれ)いつか報われるという前向きで力強い確信が、どんなに上手くいかなくても生き続けようとする意志と共に流れている。何度見てもラストで泣きます。
HANA-BI(1998)
張り込み中の不手際で同僚の大杉漣を半身不随にしてしまった刑事のたけしは自責の念から辞職、死病に冒された妻の岸本加世子を連れて旅に出る。一方、職を失い家族にも逃げられた大杉漣はふとしたことから絵を描くようになる。寡黙な大杉漣の怒りや悲しみを映し出すその絵は次第に死をイメージさせるものへと変わっていき、たけしの旅もまた死へと近づいていく。
浅草寺のシーンで画面を横切る野良犬は鐘の音かなにかに反応して立ち止まってカメラを見るのだが、このシーンは演出ではなく実際の野良犬がカメラに映り込んでそういう反応を見せたものらしい。たけしはこれを映画の神様が降りてきた瞬間と語っているが、それは偶然性や即興性を重視していた初期作と異なり、この映画が隅々までデザインされた人工的な映画であることと無縁ではないのだろう。劇中で大杉漣が描いている絵はたけしの作であり、映画自体も絵を描くように色彩や構図がコントロールされ、グランマ・モーゼスやアンリ・ルソーなどの素朴派を思わせる技巧的で平面的な画面が続く。登場人物はまるで命を持たない「Dolls」であり、コントのように作り物めいたその言動には、生が実感できず、だから死も実感できないような、時代の空虚が込められているのかもしれない。
菊次郎の夏(1999)
菊次郎は北野武の父親の名。その名をいただくダメ親父のたけしが近所の子供を連れて夏休みの小旅行に出るこのロードムービーには、たけしの私的なノスタルジーと共に従来の北野映画にはほとんど見られなかった温かみが溢れている。前作『HANA-BI』とは対照的にアーティスティックで技巧的な面は影を潜め、代わりに前面に出ているのは内気な子供(関口雄介)と大人になりきれないたけしのユーモラスなやりとりや、夏の陽光がまぶしいなんでもない風景、井手らっきょとグレート義太夫のバラエティ的コントなど、誰もがどこかで見たり経験したことがあるような大衆的でベタなもの。しばしば北野映画の特徴とされる映像美や前衛性、そして暴力性はここにはないが、だからこそ愛すべき一本となっている。菊次郎が子供との交流を通じて今まで避けてきた母の終末期に向き合うというラストは『ソナチネ』の有名な台詞「あんまり死ぬの怖がると死にたくなっちゃうんだよ」に対するセルフアンサーなのかもしれない。
BROTHER(2001)
「ファッキンジャップぐらいわかるよバカヤロウ」の台詞があまりにも有名な、アメリカ資本・アメリカ舞台で撮影された異色の北野映画。しかしながらその内容はむしろ難解な作品の多い北野映画の中ではもっとも通俗的でわかりやすく、ヤクザVシネもしくは東映任侠映画の現代版の趣、たけしの考えるカッコイイ俺がストレートに画面に炸裂しているのを見るといささか気恥ずかしくもなる。キタノブルーの更新を目指したのかブラウンを基調にした色彩設計はムーディーだし、日米のヤクザ者たちがバスケに興じる場面や、あてどなく舞って落ちていく紙飛行機は北野映画的な詩情を漂わせて悪くないが、やはり初のアメリカ映画で思うように撮れなかったのか、カッコばかりで真に迫るところがないのが苦しい。逆に、北野映画が肌に合わないという人は作家性の薄いこちらの方が面白く見られるかもしれない。
Dolls(2002)
文楽から始まる様々な純愛の形を描いたオムニバス恋愛映画。桜や紅葉といった自然の色が極端に誇張された鮮烈な色彩、赤い糸で両足を繋がれた男女が文楽人形のように歩き続けるショットなどに見られる強烈な叙情、ヨウジヤマモトによる伝統と革新の同居する斬新な衣装など、個人映画かというほどに北野武の「これがやりたい」の詰まった作品であり、同時にその世界観や実験性は『恋や恋なすな恋』や『妖刀物語 鼻の吉原百人斬り』などの内田吐夢作品を想起させる。意中のアイドルのために己の両目を潰して盲人になるファンのエピソードなどまるでサイレント映画のようであるし、次作『座頭市』で顕在化する北野武の古典回帰の志向が伺えるのは面白いところ。たけしが乗り移ったかのようなホーキング青山と相方のやりとりは漫才的で笑えてほっこりさせられます。
座頭市(2003)
金髪の座頭市をたけしが演じ、ワイヤーアクションやタップダンスを取り入れた実験的なたけし版『座頭市』。オリジナルの座頭市・勝新太郎は実験的な演出を好む映画監督としての顔もあり、初監督作の刑事ノワール『顔役』には大胆な省略や傍観的なカメラワークなど北野映画との共通点も見られることから、この前衛性は北野武本人の嗜好の他に勝新へのオマージュの面もありそう。さすがに勝新の殺陣と比べるとたけしの殺陣は迫力がなく、それを捉えるカメラワークも鈍重でキレがない、アクションは向いていなかったのか面白いか面白くないかで言うとそんなに面白くはないのだが、座頭市よりも足軽みたいな格好で年中あぜ道を走り回っている村のバカ(たけし軍団の無法松)や儚げで艶っぽい芸者姉妹といった市井の人々の姿が印象に残る作品であり、エンディングの華々しいタップダンス村祭りを見れば民衆こそがこの映画の主役であったと気付かされる。座頭市のヒーロー性を否定するかのようなアンチ『座頭市』として、数ある座頭市映画の中でも異色の一本。
TAKESHIS’(2005)
貧乏アパートに住む使えない中年コンビニ店員の北野武は大スタアになった自分=ビートたけしを夢見ている。だが大スタアのビートたけしもまた使えない中年コンビニ店員になった自分=北野武を妄想しており、あたかも中国故事の胡蝶の夢のように、二人のたけしの垣根は崩れ、現実と幻想は混淆していく・・・。
たけしがたけしに憧れたけしがたけしに怯えたけしがたけしに成ろうとしてたけしがたけしから逃れようとするある意味究極の北野映画。文字通りの意味で自己言及が激しいというか自己言及だけで構成されたたけしの自伝ないしエッセイ的なメタフィクションであり、暗闇からゾマホンとかおっぱい揉みDJとかその場で思いついたような一発ギャグ的なネタが脈絡なく続いたのち、終盤はこれまでの北野映画のセルフパロディ的ダイジェストになってしまう。フェリーニのカルト的名作『8 1/2』に倣ったと思しいその潔い破綻っぷりは爽快だが、これまで儲からないと言われてきた北野映画の中で例外的に大ヒットを飛ばした前作『座頭市』の成功を受けて、確信犯的に観客に背を向けているので、おそらく賛否は真っ二つ。ハードコアな北野映画ファン以外にはまったくオススメできない。ちなみにワタクシが初めて映画館で見た北野映画はこれでした(わけがわからなかった)
監督・ばんざい!(2007)
大スタアであり続けることのプレッシャーに押しつぶされる苦痛とその反面の大スタアから転落したらという恐怖が同居する北野武自身による北野武の精神分析のような構成を取っていた前作『TAKESHIS’』の姉妹編のようなこちら『監督・ばんざい!』はたけしくん人形を抱いた映画監督・北野武が精神科を訪れ「完全に病気です」と言われてしまう場面で幕を閉じる。一見祝福的なタイトルの意味するところはたけしの言によれば「もうお手上げ」。セルフパロディだらけだった前作の反対で、こちらは今までたけしが撮ったことのないジャンルの新作映画を撮ろうといろいろアイデアを出してみるのだが、どれもうまく行かず挫折してしまうという内容、そのうまく行かなかった映画の断片が連なるオムニバスとなっている。何を撮ったらいいかわからない、こりゃもうお手上げだ、監督・ばんざい!
けれどもその後ろ向きな気分に反して作品のトーンは無邪気で明るく、たけしプロデュースのバラエティ番組の拡大版として見れば、豪華ゲスト参加のわちゃわちゃムードが楽しい、おそらく北野映画としてはもっとも観客を選ばない映画となっている。笑えるか笑えないかはまた別の話だとしても。
アキレスと亀(2008)
『TAKESHIS’』『監督・ばんざい!』に続く北野武スランプ三部作の最終章。キャストを確認するために映画サイトの作品情報ページを開いたら「温かなヒューマンドラマ」みたいに書いてあってびっくりしたが、これはそんなやさしい映画ではなく、何をやっても売れないし芸術的な達成感も得られない無名画家・マチス(たけし)が次第に追い詰められていき、娘の死をもアートにしようとして妻の樋口可南子にめちゃくちゃキレられるという芥川龍之介の代表作『地獄変』の北野映画版。炎に包まれながら絵を描く究極のアート・パフォーマンスで画家としての本懐を遂げようとするマチスの姿は『地獄変』に登場するアートの鬼・良秀そのものだ。
同期の芸術家の卵たちも次々と消えていきアートの世界の恐ろしさと残酷さが描かれるが、際立っているのはマチスの妻・幸子を演じる樋口可南子の存在で、彼女はアート以外に何もできないマチスの不器用な純粋さに惹かれて彼と結婚するが、あまりにもマチスがアート以外に何もできず関心も持たないので次第に疲弊してくる。マチスは大人になっても子供時代と全然変わらないが幸子はどんどん変わっていく。このような血の通った女性が描かれたのはおそらく北野映画では最初で最後ではないだろうか。たけしがたけしだけを徹底して描いた『TAKESHIS’』に始まる北野武スランプ三部作は、岸本加世子の生き生きとした演技が印象的だった『監督・ばんざい!』を経て、たけしを通してたけしの妻の人生を描くこの『アキレスと亀』に辿り着く。自分ではなく他者に関心を持とうとすることで、映画監督・北野武はスランプを脱し、そして後期の代表作『アウトレイジ』が生み出されることになる。
アウトレイジ(2010)
当初は深作欣二が監督する予定だったものの撮影前に降板、急遽代打監督として白羽の矢が立ったのが主演のビートたけしだった・・・という逸話を持つ『その男、凶暴につき』が映画監督デビュー作となった北野武が深作欣二の代表作『仁義なき戦い』シリーズ(などの東映実録路線)を思わせるヤクザ抗争劇を撮ることになったのは必然だったのかもしれない。たけし自らが演じる主役ヤクザの名前は大友、『仁義なき戦い 広島死闘編』で千葉真一が演じたシリーズ随一の人気キャラクター・大友勝利から取られた名前であることは言を俟たない。たけしによる『仁義なき戦い』の再解釈・再構築とも言える『アウトレイジ』はヤクザ社会を通して日本的な上意下達の組織構造とその中で培養されるモラルの腐敗を鋭く抉った批評的な映画でありつつも、北野映画的なクセが脚本にも演出にもほとんど見られないという意味で北野映画初の「普通の」娯楽作であり、映画監督・北野武の第二のデビュー作といえる。二十年も映画を撮り続けてようやくこういうのを・・・と思うとかなり感慨深い。
アウトレイジ ビヨンド(2012)
前作で刺殺されたかと思われた大友は生きていた。無事刑期も終えてこれからは暴力のない世界で静かに生きよう・・・と考えていたところに現れたのが上司から暴力団の更なる締め付けを命じられた仁義なきマル暴刑事の片岡(小日向文世)。彼は大友を利用して前作で大友が属していた広域暴力団・山王会の更なる内部抗争を誘発、関西ヤクザの花菱会も巻き込んで潰し合いを目論むのだったが・・・。
『仁義なき戦い』の北野流再解釈だった前作にはまだ微かに残っていた東映実録路線的な熱情はこの続編で雲散霧消、大友にはかつての反骨心はもはや残っておらずその姿は主演にも関わらず幽霊のようであり、bot思考のヤクザたちがただただ機械的に殺し合っていくさまはなんだかテトリスの上手い人のプレイを見ているよう。無味乾燥とも言えるが、数学を得意とする北野武のらしさが発揮されたドライで緻密な群像劇とも言える。厭世と悲哀を滲ませるなんだか小さくなった大友の後ろ姿、バッティングセンター殺しや『北陸代理戦争』オマージュの首出し生き埋めなどユーモラスな殺しの数々、なにより今回から登場の花菱会ヤクザ、とくに塩見三省の名人芸の粋に達したヤクザ恫喝は必見。
龍三と七人の子分たち(2015)
元ヤクザのご老体・龍三(藤竜也)は最近巷で幅を利かせている半グレ連中にご立腹。この野郎ヤクザ舐めんじゃねぇぞ!ということで各地に散ったかつてのヤクザ仲間たちに再招集をかけ、半グレ撃退を目論むのだが、果たして平均年齢アラウンド70の彼らにそんな大層なことができるのだろうか?
70年代不良映画番長の藤竜也を主演に迎え近藤正臣や中尾彬など往年の名優たちがシニア愚連隊を結成する企画モノ的な作品で、こちらは『アウトレイジ』よりも更に間口が広いバラエティ的コント映画の趣、いささか間口を広くし過ぎているきらいがありギャグも展開も単純なのだが、バラエティタレントとしてのビートたけしが見せる笑いの世界には全北野映画中もっとも近い。そのためか劇場公開時にはシニア層中心にバカウケだった。刑事に扮したたけしが楽しそうに暴走老人たちを逮捕して回るラストのドタバタ感には妙な幸福感が漂う。
アウトレイジ 最終章(2017)
ヤクザ抗争を誘発し数多くの仲間たちを殺し合わせた刑事片岡を刺殺した大友は暴力の世界から逃れるため韓国人フィクサー張の手を借りて韓国・済州島に渡っていた。だがそこで日本人ヤクザ(ピエール瀧)がトラブルを起こしてしまう。恩人の張に迷惑はかけられないと大友は日本人ヤクザをシメるのだが、それをきっかけに大友は再び暴力の渦に巻き込まれていく。
隠居した大友がのんびりと済州島の青い海で釣りを楽しんでいるシーンから始まるシリーズ最終章は明確なプロットを持っていた前二作と異なり、暴力の世界から逃れられない運命を悟った大友が死に場所を見つけるための詩的なロードムービーの色彩が強い。もはや誰と誰がどう争っているかなど大友にはどうでもいいことなので、見ているこっちもなんだかよくわからなくなってくるが、その投げやり感が暴力の不毛を表しているという意味で、暴力批判の映画でもある。抗争の後に残された者たちの荒んだ姿には大友=たけしの悔恨が滲み、かつて監督デビュー作『その男、凶暴につき』で死闘を演じた白竜とたけしが再び邂逅するラストには、暴力に塗れた過去を清算しようとする願いが込められているように見える。泣けます。
首(2023)
時は戦国時代、破竹の勢いで天下統一に邁進する織田信長(加瀬亮)だったがその度を超した狂犬っぷりには信長の軍門に降った有力武将たちもさすがに辟易、本音ではこの鬼畜第六天魔王にはもう着いていけないと思っていたが武勲を立てれば跡目をやるとの言葉が辛うじて謀反を防いでいた。だが抜け忍の密使(木村祐一)が手に入れた書簡により信長が息子の信忠に跡目を相続させる算段であることを知った羽柴秀吉(ビートたけし)は、それならばもう恩義もあるまいと明智光秀(西島秀俊)に謀反をけしかけ、安泰と見えた信長の天下は内部崩壊していくのだった。
『座頭市』に続いて監督二作目となる北野武の時代劇は日本映画としては巨額の予算を投じたオールスターキャストの本格時代劇の側面を持ちつつも、もう片方の側面は徹底的な時代劇茶化し。小説『教祖誕生』で新興宗教団体を、主演作『哀しい気分でジョーク』で芸能界を、そして監督作『アウトレイジ』ではヤクザ組織の虚飾を剥がした北野武は『首』で戦国ロマンあるいは時代劇の虚飾を剥がす。なんだお前ら、カッコつけて美辞麗句なんか並べてやがるが、一皮剥けばどいつもこいつも権力と金が欲しいだけじゃねぇか!おそらくそんなことが言いたいがために『アウトレイジ』的抗争劇だった序盤から一転、後半はブラックジョークだらけのコントみたいになってしまう。しかしそれが愉快痛快。大河ドラマなどによって戦国ロマンが蔓延する現代日本にあっては実に刺激的な一本だ。そしてなにより、加瀬亮が演じる田舎のチンピラ丸出しの超小物な信長が最高!