【特集 北野/たけしの映画世界】北野武の(出ている)映画『JM』
北野武という名前は知らなかった。ビートたけしという名前で北野武を認識していた。
そんな子ども時代であった。
ビートたけしが映画を撮っていて、世界的にその映画が評価されているということを知らなかった私は
ビートたけしといえば『世界まる見えテレビ特捜部』でずっとフザけている人と思っていた。
以来、今の今まで北野武の映画はあまり見ている方ではないが、
北野武と映画ということで言えば、印象的な映画が私には1本ある。
キアヌ・リーブスと北野武(この時はクレジットはTakeshiだった)が共演したSF映画『JM』だ。
『JM』は当時、キアヌ・リーブス主演のアクション映画『スピード』の翌年に公開された。
キアヌ・リーブスはこの時は人気の絶頂にあっただろう。そのキアヌがビートたけしと共演する。
テレビの洋画劇場で見た時にはそこが話題になっていた。
『まる見え』では変なカッコをして、あんなにフザケた人なのに凄いんだなぁと子ども心に思ったものだ。
重要なデータを、脳に埋め込まれた装置に記録し運ぶという運び屋が活躍するSF映画だった。
後に知る事となるが『JM』はサイバーパンクというSFのサブジャンルに属する映画であった。
そして、その脚本をサイバーパンク的SF小説の代表的な作家であるウィリアム・ギブスンが担当し、自身の短編である『記憶屋ジョニィ』を映画として脚色したものだった。
サイバーパンクというものは定義は多岐にわたり、曖昧な部分もあるが大まかにはこうだ。
・人間の肉体がテクノロジーによって拡張された未来
・高度に発達した情報社会
・それらを含んだ社会の有様を描いている
さらに「こういうのがサイバーパンク」というヴィジュアルのイメージもある。お決まりを挙げると
・ネオンやホログラムに彩られた町並み
・コードや配管やモニターなどが入り組んでいる
・奇抜な服装や様々なガジェット
等がある。
サイバーパンク要素を含む先駆的映画『ブレードランナー』からもたらされたイメージも多分にあるが、そんなサイバーパンクの世界観やヴィジュアルを分かりやすい娯楽映画として端的に提示している映画がこの『JM』だ。ひと目見てサイバーパンク的としか言いようがないくらい、わかりやすくサイバーパンクの世界観を描いている映画だ。
これを当時観た時は、劇中に登場するインターネットやバーチャル空間の概念や、ダウンロードやギガバイトといった用語はあまり浸透しておらず、話はイマイチ分からなかったが、そういう意味不明な言葉さえもカッコよく響いたし、その『サイバーパンク的』奇抜な世界観に、当時は驚いたものだった。(ブレードランナーなどは後から出会った映画であった。)機械に繋がれて薬中毒になったイルカが出てくるといったセンスも素晴らしく、子どもだった私は落書きに、よくわからない機械やパイプやコードを書いていたのを覚えている。
今、観直すと地味なのも非常に良い。
空飛ぶ車やロボットなどの分かりやすく未来を思わせる装置は全くこの映画は出てこない。
キアヌの頭の記憶装置はちっこい差込口しか見えないし、その他色々な装置が出てくるが、どれも小さく地味なものばかりで、それをカチャカチャと配線したりして使う。
どの様に装置を扱っているのかという描写がこの映画には多い。今で言うVR的装置をどの様に操作しているのかなど、ちゃんと描写しているのだ。
この地味さが妙なリアリティを感じさせる。派手なSF映画では省かれる様な生活感とも言えるような感覚がとても良い。本来SFにはこういった実在感=生活感というのが必要なのではないのか…とも思うところだ。
前置きが長くなったが、北野武である。彼はキアヌと敵対するヤクザのボスを演じていた。
どんなにフザケた役なのかと思えば。病気で娘をなくしたヤクザのボスという非常にシリアスな役だった。
あきらかにそれは「世界まる見えテレビ特捜部」で見る姿ではなかった。
鋭い眼光。スーツに身を包み日本刀を振るう姿。
海外の映画の中に見覚えのある日本人がいる特異さも手伝っていたかも知れない。
それを差し引いても北野武の存在感は明らかに異質だった。
映画の出来自体は、けして褒められたものではない。その一因には登場人物の描き込み不足などがあるように思う。
北野武は最終盤までキアヌの前に姿を表さない。現れたと思いきや、手下に裏切られ即退場してしまうというのは、ちょっとどうかと思う。
それを言えば北野武だけでない。この映画に出てくる俳優の扱いは、出演時間の違いはあれど、似たり寄ったりである。
キアヌ・リーブスは主役だがイマイチどういう人物なのか掴みどころがないし、ヒロイックに活躍するという感じでもない。中盤から出てくるドルフ・ラングレンも強烈な個性の悪役だが何の為に出てきたのかさっぱりである。ウド・キアもいつの間にか退場している。
この三人は今現在も活躍する魅力ある俳優であり、存在感はやはり当時からあるのだが、この映画はその魅力に助けられているところは正直言って大きいと思う。
そしてそこに並んで、北野武はどうだろう。負けず劣らずの存在感を放っているではないか。
サイバーパンクの世界観に北野武は不思議とマッチしている。余談だが北野武は後に、これもサイバーパンクSF『攻殻機動隊』の実写映画化『ゴースト・イン・ザ・シェル』にも出演しているが、こちらも堂々とした存在感を放っていた(映画の出来はやはり置いておく)
『JM』の北野武は明らかにその存在感で映画に花をそえている。
セリフもたいして無いが、喋らずもその異質な佇まいや、あの「にやり」という擬音がピッタリの笑顔が雄弁である。
キアヌはたけしの演技を見て悔しがっていたという逸話もあるが、あながち嘘と言い切れぬ良さがある。
亡き娘の部屋でぬいぐるみに囲まれている姿など最高だし、いきなり日本刀で、使えない手下を斬り殺すのも痺れる。手下がわざわざ日本語で話しかけると「何言ってるかわからねぇよ英語で喋れ」と返すのも笑える(これは北野武のアイデアで日系の俳優の日本語が本気で聞き取れなかったらしい)
終盤、北野武とキアヌが対峙するシーンは(その後すぐに退場するにしても)最も熱量があるシーンだ。
退場したと思いきや、最後は映画の美味しいところも持っていく姿にはグッと来るものがある。
『JM』において北野武の出演時間は短いが、思い返せば北野武が多く思い出される。
『JM』は北野武の映画と言って差し支えないであろう。
北野武関連の映画と言われて『JM』を持ち出すのはどうかと思うが、『JM』が私の映画における北野武との出会いであった。
とくに今更、再評価されるような映画ではないかもしれないが、忘れ難い映画である。
そういえば2022年に『JM』のモノクロバージョンのBlu-rayが海外では発売されたらしい。