【放言映画紹介 ウチだって社会派だぜ!!】第16回 犬よ道端でクソを垂れろ!いなば食品のブラックな実態×『邂逅』(1939)
ある日曜の昼下がり、ウチはいつものようにblueskyやツイッターをぼんやり眺めて時間を過ごしていた。
ツイッターでは猫用おやつ「ちゃおちゅーる」で有名な食品企業・いなば食品1が絶賛炎上中であった。なんでも事前に伝えていた給料を減額した上に廃屋のような社員寮2に住まわせようとしたため、一般職の新入社員が一斉に退職する事態になったそうだ。
- ちゅーるの販売を担当しているのは小会社の「いなばペットフード」である。 ↩︎
- いなば側は誤解であると否定している。のちに「由比のボロ家報道について」というタイトルのプレスリリースを発表。(現在は「由比のシェアハウス報道について」に改題。) ↩︎
ウチは出来心で「ちゅーる 不買」で検索してみたところ、うちのネコちゃんはちゅーるしか食べられないんです!死んじゃうんです!という飼い主の嘆きで溢れていた。それを見てウチはついついblueskyに「過保護だぜ(プゲラ)」(意訳)と投稿してしまったのである。
すると、それを見た相互フォロワーの一人がいきなりウチを「邪悪」「正義感に酔っている」といった、大量のエアリプ長文で非難し始めたのだ!佐藤優は「天皇と石原裕次郎と美空ひばりの悪口は書いてはいけない」と言っていたような気がするが、今やそこに猫も加わったわけだ。
驚いたウチは「邪悪は言い過ぎでしょ。怒らせたなら謝るけど最初から強い言葉を使わないでくれませんか?」(意訳)と返したところ、「あなたの感情なんて知ったこっちゃないし、本当にマジで邪悪だと思ってるよ」(意訳)と言われてしまった。
しかも「あなたに対する感情を詳しく言語化すると、これどころでは済まない」(意訳)とさらなる恫喝を食らってしまった!
邪悪を超える言葉・・・し、し、死ねということだろうか!?(汗)それしか思いつかないっ!
邪悪かつ正義感に酔った人間となると、ウチの頭にはナチスの高官が思い浮かぶ。悪の親玉・ウチが「いなば食品問題の最終的解決」を唱えたため、凡庸な善ことblueskyの皆様を恐怖のどん底に陥れてしまったようだ。謹んでお詫び申し上げます。
それはそうと、ウチの発言程度で「邪悪」となると新入社員を廃屋に住まわせようとしたいなば食品は極悪非道の大悪党一族になってしまう。全員死刑・及び・工場の取り潰しが相応しいだろう。ますますチュールなんか食ってはいかんよね?という話になってしまうではないか。
邪悪なんてスケールのデカい言葉、八田與一(逃亡中の人)でも苦しい。木嶋香苗でギリ、似合う。人を殺したことないウチには、荷が重かとですよ~っ!
手元にある貴重な邪悪カード、ウチで浪費せずジェフリー・ダーマーとかプーチンとか731部隊とかレオポルド2世の植民地政策とかに対して使ってほしい!大富豪で相手が5とか6とか出して適当に様子見してる時に、わざわざジョーカーを出すのはアホな遊び方であろう。
その極端な物言いに、ウチの脳裏には「どうしてこうも簡単に人を殺すんだよ・・・死んでしまえ!」という『Zガンダム』(1985-86)の主人公、カミーユ・ビダンの迷言がちらついていた。
平和なblueskyといえど、SNSは平凡な小市民を富野アニメに出てくるような哀戦士に変えてしまう恐ろしい力を持っているようです。ちなみにこの場合、哀戦士の「哀」は「哀愁」の哀ではなく、「可哀想」の哀であります。
そんな訳でガンダムに乗るつもりのないウチは、こりゃだいぶ様子おかしいぜと思って即ブロックしたのだった。
ここまでくだらねーSNSのケンカだが、なんかウチには考えさせられる出来事であった。その人は保護団体でボランティアしていた経験があったようで、ウチのような猫エアプ勢と違い、動物に並々ならぬ思い入れがあったのだろう。
様々な事情でチュールしか食べようとしない猫もいる。発達障害者の偏食や感覚過敏と同じ症状で、犬や猫にも発達障害がいるらしい。特に飼い主の言う事を聞かない発達障害犬は、しつけのため電流が流れる首輪を付けられ粗相をするたびビリビリやられている。自分たちは犬に生まれていたら、電流を流されるに違いない!
という様に発達障害者を名乗るその人は「同胞」の苦境について懇々と語っていたのだが、逆にウチはムムムと考えこんでしまったよ。
わざわざ人間の障害の概念を適用してまで犬猫に感情移入する必要があるんだろうか。別の生き物にまで自分と同じ属性を見出す必要があるんだろうか。猫に対する想像力の裏で、人間に対する想像力が失われてるとするなら、これは悲しい。(砂糖を取ってこれないアリも、発達障害者なのかなあ?)
てゆーか、犬に対する同情よりも犬を電気責めする人間の行為に恥じ入りなさいよ!人間が電気首輪付けるべきでしょ!その謎の被害者ヅラ、侵略の歴史を反省せずバーベンハイマーにとかにいちいち怒っている戦後日本人を想起させるっ!(ナチVS大日本帝国開幕)
話は変わるけど、ウチは服を着ておしゃれした犬が散歩中にボトボトクソを垂れてるのを見るのが好きなんだよね。飼い主は犬に人間の真似事をさせ、まるで本当の人間の子供みたいに扱ってる。だけど犬はどこまでいっても犬でしかない。そのズレが滑稽で愛おしく、本当に犬って素晴らしい生き物だなあと温かい気持ちになるのだ。いささかひねくれた愛し方ですが!
ツイッター上では動物を動物として愛せず、同じ人間の苦境に対して知らねーよと吐き捨てるようなひどい愛猫家も多い。報道によると、退職した新入社員の中には奨学金を借りており今回の事件で心を病みそうになっている人もいるらしい。
昨今のペットブームは動物に対する意識を高める一方で、手前の猫さえ良ければそれで良しとするような風潮を作った罪の部分の方が大きいのではないか?と感じた一件であった。
前置きが長くなったが、今回ご紹介する映画はレオ・マッケリーの『邂逅』(1939)である。これまた古い映画だな~
あらすじ
大富豪の娘との婚約が決まった青年ミシェル(演:シャルル・ボワイエ)は一人気楽にナポリへ向かう船旅を楽しんでいた。彼はそこで自分と同じ一人客の女性・テリー(演:アイリーン・ダン)と出会う。彼女はナイトクラブで働く女性歌手で、裕福なミシェルとはまるで違う世界の住人なのだが、なぜか二人は惹かれあう物を感じていた。
二人はマデイラ島にあるミシェルの祖母の家を訪れ、穏やかなひと時を過ごす。だが別れの時は目前に迫っていた。「半年後の7月1日、エンパイアステートビルの5階で再会しよう。一人前になった自分と結婚してほしい」とプロポーズするミシェル。
二人はそれぞれのパートナーと元通りの生活を続けるが、次第に気持ちが抑えられなくなってくる。そして運命の7月1日、悲劇が起こる。テリーがエンパイアステートビルに向かう途中、交通事故に遭ってしまったのだ。来ないテリーをいつまでも待つミシェル・・・果たして二人は結ばれるのだろうか?(はい、結ばれます)
『めぐり逢い』(1957年)『めぐり逢い』(1994)『めぐり逢えたら』(1999)など、何度もリメイクされてきた恋愛ドラマの名作である。ヒロインが突然の交通事故に遭う所なんかメロドラマの形式!作劇上の要請!という感じで鼻白む観客もいるだろうが、大好きなあの人のためにもっと良い自分になる・・・という健全な向上心をまっすぐ描いているので浮気の話なのにまぁまぁ感動してしまう。かの淀川永治も「鬼の目にも涙」と紹介していました。
数多くのリメイク作の中で気になるのは、やはり同じ監督による1957年版のリメイクだろう。こちらはケイリー・グラント&デボラ・カーの主演。ヨーロッパの香りのする伊達男:シャルル・ボワイエと哀愁あふれる名花:アイリーン・ダンのオリジナルコンビに比べると、なんつーか分かりやすい二人である。まるで小学生が考えた美男美女という感じで、個人的にはオリジナル版の繊細さを推したいところ。
現代ならスマホで連絡取って「車に轢かれちゃった。ごめんね笑(ちいかわのスタンプ)」の一言で終わる話である。映画の中とはいえ、昔の人はこうまでしてすれ違っていたのか!っと思わせる作品だ。
スマホさえあればすれ違わなくても済んだ!スマホがあれば苦労せずに済んだ!スマホがあればすぐに結ばれた!
逆である。スマホなんか無くたって生きていけるの!人類は何万年もスマホ無しで生きてきたの!スマホ無しでも死ぬほど恋愛してきたのっ!
ちゅーるが無いと生きていけないんですという嘆きは、ウチには「スマホが無いと死んじゃう」という不満と同レベルに思えるのだ。
あらかじめ断っておくが、ウチはチュールヲ不買セヨ!と言いたいのではない。ああいうタガが外れた経営者はビッグモーターと同じで不買運動なぞ屁とも思わないだろう。大人なんだから、個々人の判断で買ったり買わなかったりすればいいだけだ。
でも、ちゅーるが無いと死んじゃうっていうのは思い込みじゃないか?
ちゅーるの発売は2012年で、わずか10年ほどの歴史しかない。その前から人間は何千年も猫と一緒に暮らしてきたのだから、方法はきっとあるはずなのだ。ちゅーる以外にも銀のスプーンとかシーバとかモンプチとかねこぴゅーれとか代替品が山のように発売されている。大体世界を見渡してみれば、ちゅーるを売っていない国の方が多数派だろう。
悲しいことに現代を生きるウチらは他の労働者の苦労をよそに、ユニクロ・スマホ・Amazon・ツイッター・セブンイレブン・UberEats・スタバ・マック・TVの深夜アニメ無しの生活を想像できなくなっている。今やその列にペット業界も加わったというだけで、ことさら取り上げて嘆き悲しんだりすることでもないかもしれない。(ウチラの手は余りにも汚れすぎており、流す涙は全て偽善の象徴である。)
ただ月に一回くらい、ユニクロを着ない・ちゅーるをあげない・スマホを触らない・ツイッター見ない・ネットで何も買わない、お散歩してクソを垂れてる犬の美しさに気づく・・・そういうなんてことない日を作ってもいいんじゃないかな?別の世界への想像力を保つために。
いつも楽しく記事を読ませて頂いていますが、
今回の記事はちょっと同意できなかったのでコメントさせて頂きました。
チュールを猫の嗜好品とするか、主食とするかで変わってきますし、
まぁ、そりゃ、チュールがなくても死なないかもしれませんけど。
その理論から行くと、極論、
「眼鏡をかけなくてもいい!」「電気がなくてもいい!」
とならないでしょうか?
いつも記事を読んでくださりありがとうございます♪コメントもありがとうございます♪
ウチは歴史の浅いものは不要!と主張したいのではなく、無くてもまあまあ何とかなりそうなものを、無きゃ死ぬ!と騒ぐのは違うんでないの?というところが出発点なのであります。電気、眼鏡・・・無きゃ死にますよね。大いに使いましょ♪しかしちゅーる・・・う~ん厳しい!(スマホもチュールと同じく人生のおやつという認識です)
また眼鏡や電気と違いチュールは単なる一商品です。眼鏡業界なら眼鏡そのものではなく、メガネスーパーに相当するものと思われます!
というわけで「極論」との但し書きをつけて下さいましたが、ウチの中でそのような「極論」の想定はそもそもしておりません!チュールを眼鏡や電気と同列に扱う「極論」を叫んでる奴がいたら、いや、ちょっと前まで存在すらなかったじゃん・・・とマジレスするのは自然なツッコミであると思っております♪
(ご理解頂けましたでしょうか?)
余談ですがウチは「そんな騒動なんか知らねーよ」という冷酷な態度こそ一番の問題であると考えます。つまり言い方の問題だって大いにあるだろっ!という点も訴えたいのです!
たとえ生活必需品の眼鏡であっても・・・もしもですよ?メガネスーパーの社長が連続殺人鬼であることが判明し、メガネスーパー不買運動が起こり、それに対して「メガネスーパーの眼鏡の柔らかいツルじゃねえと耳が腐って死ぬ!殺人事件なんてどうでもいいだろっ!俺に眼鏡を買わせろっ!」と主張する御仁がいれば(いるのか?)、ウチとしてはやはり「無くても死なないぢぇ?」の旗印・・・いや赤旗の下に集い、ナチに抵抗するT-34の如く暴れる準備ができておりますっ!起て~飢えたる者~よ♪(アソレ♪)
「メガネスーパーやばそう(汗)今のうちに買いだめしとくかぁ~」くらいの投稿でしたら何とも思いません♪(眼鏡の買いためとは?)