【ミニミニ特集】祝卒業!卒業シーズンに見たい映画13選!
みなさま、ご卒業おめでとうございます!これから進学する人、就職する人、放浪の旅に出てみる人、とくに何もしない人・・・いろいろいるでしょうが、何はともあれご卒業おめでとうございますでございます!
と、卒業シーズンの3月だからと中高生もしくは大学生を念頭に置いて書き始めてしまいましたが、人生における「卒業」はなにも学校に限ったものではありません。いやむしろ、いろんなところでいろんなものを卒業したり卒業できなかったりし続けること、それが人生なのかもしれません。とすれば世の中には実にたくさんの卒業があることになるでしょう。
ということで今回は学校に限らずいろーんな意味での「卒業映画」を13本集めてみました!学校を卒業する人もしない人ももう既に卒業しちゃった人もみんなご覧下さい!どうぞ!
グラディエーター(2000)
英語で卒業をGraduateと言うが一方で古代ローマの剣闘士を意味するのはGladiator、ご存じグラディエーターである。綴りは少し違うがたぶんきっとおそらくこのグラディエーターが卒業を意味するグラデュエートの語源になったのではないか?真相は不明だが、その可能性があるならば卒業シーズンにはリドリー・スコットの代表作の一つ『グラディエーター』こそ相応しいかもしれない!
映像派のリドリー・スコット監督だけあってこの映画の見所はなんといっても光と影の織りなす映像美。ダンジョン(地下牢)など古代ローマの明るい側面ではなく暗い側面に光を当てて、権力闘争を軸にしたストーリーともども重厚ムードむんむんだ。
命がけの死合に無理矢理狩り出され勝利すれば成り上がって市民権を得、死ねばそこではい終わりの奴隷剣闘士には、決闘やそれを通した超越を作家的テーマとしてきたリドリー・スコットの美学や哲学が凝縮されている。これから大人社会というコロッセオに放り込まれ虎だのなんだのと無理矢理戦わせられる卒業生Graduaterのみなさん!奴隷剣闘士ラッセル・クロウの生き様をしかとその目に焼き付けよ!
(さわだ)
ハメット(1982)
本作は「探偵ハメット最後の事件」と言えるような話になっている。
主人公のダシール・ハメットは実在した探偵小説家で、かつてピンカートン探偵社で働いていた。彼の元にかつての同僚が現れる。しかし事件を持ち込むと、すぐに姿を消してしまう。
ジョー・ゴアズによる原作小説では、正にハメットが『赤い収穫』『デイン家の呪い』といった作品を執筆している。それらは探偵小説の一類型「ハードボイルド」の始まりとなった。映画の中ではそれが架空の小説に置き換わっていて、その中のシーンも少し映像になって出てくる。その舞台はハメットが住んでいるテリトリーで、ジョセフ・H・ルイス『拳銃魔』を思わせる妙な水場がある。
探偵から転身した探偵小説家が演じられ、フィルム・ノワールとして映し出される。「ハードボイルド」そして「ノワール」の成り立ちを見せるような夢の映画である。
しかし、あまりにも「夢」すぎる感じがする。その原因として思いつくのは音楽を『007』のジョン・バリーが手掛けていることと、画面の狭さだ。
多くのシーンがセットで撮られていることが、その「狭さ」を出していることは間違いない。しかし、と思いながら予告編を再生したところ、その画面は4:3だった。それは16:9の本編よりも決まっていた。撮ってから上下を切ったのだろうか。
(コーエン添田)
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)
少し前に『イノセンス』の復刻上映をやっていたが本作『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』はその前作に当たる映画である。まぁ今さら何をかいわんやという日本アニメ映画史に燦然と輝く名作なのであるが、本作は押しも押されぬ卒業映画の傑作とも言える作品であろう。
ん? なんか昔どっかで見た二次創作のものと勘違いしていないか? と思われるかもしれないがそんなことはない。本作は間違いなく卒業映画である。観たことがある人なら分かると思うが、本作では押井守お得意の非常に迂遠でまどろっこしい言い回しのセリフを重ねながらもやっていることは非常にシンプルな自分探しの物語である。魂の所在を求める物語、と言ってもいいかもしれない。だがその探求の途上で出会う幾重にもわたる自己言及は堂々巡りのトートロジーになり、皮肉にも自分の不確かさばかりが浮き彫りになっていってしまうのだ。
そのループからの脱出が「もう人ではない存在になってもいい」という終盤の決断なのだろうと思う。つまりこれは主人公の草薙素子が人間から卒業するお話なんですね。私を探し続けてもそんなものどこにもないから、じゃあ私から卒業しよっか、というわけである。しよっか、とかそんな気軽なノリでやれるものではないと思うがこれは仏教的な輪廻からの解脱みたいな側面もあって興味深いなぁと思いますよ。
また作品の総括的な終盤の印象的なセリフで「人と成りては童のことを棄てたり」というものがあるが、これはそのまんま“成長したら子供じゃなくなる”つまり人間ってのは変わっていくもんなんだよ、ということですよね。やっぱ卒業映画だよ、これ!
(ヨーク)
ルイズ その旅立ち(1997)
甘粕事件で虐殺された大杉栄と伊藤野枝の四女・伊藤ルイのドキュメンタリー。幼少期に両親を亡くし、以降「国賊の娘」として名前を変えひっそり生き延びてきた彼女が、社会運動を通してどのように花開いたのかを追う。
映画は彼女の没後に開かれた「送る会」・・・いわば人生の卒業式の場面から始まる。若死にした両親(大杉38歳・野枝28歳)の分まで取り戻すかのように、日本各地で精力的に講演をこなす日々。最後は延命治療を拒否し、毅然とした死を迎えたルイ。人生に成績通知書があるならば「たいへんよくできました」とか「たいへんよく生きました」とか書けそうな生き様である。
本作の公開は97年、ルイはその前年に亡くなっている。90年代後半というと一般的にはオウムと安室奈美恵とエヴァの時代というイメージになるのだろうが、この作品に出てくる福岡の風景やルイの関係者たちは不思議と「あの頃」感がない。昨日のそのまた昨日を追った先にある、確かに存在した別の世界の人たちという雰囲気である。今はもう亡くなったであろう人たちがこないだ死んだ「ルイばあさん」について語る場面、そして死んじゃったルイばあさんが大昔死んだ自分の両親について語る場面、死人の思い出話が入れ子構造になっていて社会派映画なのにノスタルジックで切ない作品である。
昨日と今日は確かにつながっているはずなのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろうか。
(ATISN)
花束みたいな恋をした(2021)
挙げておきながら何だが俺はこの映画が嫌いだ。ダウ90000とかと一緒で、嫌いだけど面白いとは思う。この映画の何が嫌いって、全編漂う達観した感じとかもそうなのだが、この映画を褒める人間の「私にもそういう時期がありました」みたいな感じが強烈にムカつく。こういう奴って『ゴーストワールド』とかにも同じ事言ってそう。ウルセェ!俺は今でもこうなんだ!達観するな!学生時代からずっと達観してるじゃないか!映画界よ、達観者が苦しむ映画を作ってくれ…。
時を戻そう。この映画はおそらく平成初期生まれの人間を何人か殺害している可能性があるのだが、それは菅田将暉がサブカルから卒業してしまうシーンのあまりの辛さが原因と言われている。社会に出て、オトナの考えに染まり、いつの間にか大好きなサブカルに興味を失ってしまう。本屋で手に取るのは漫画ではなく自己啓発本。イラストも映画も興味を持つほどの気力は残っておらず、唯一のガス抜きはスマホゲーだけ。これは本当に痛いところを突かれた人も少なくないはず。ほとんどのオトナは仕事に時間も充実も人生の目的も奪われてしまう。あれだけ好きだったのに、段々と興味が薄れていって、やがて完全に興味を失う。それはとても悲しいけれど、人間のキャパシティには限界があるので仕方がないことなのだ。サブカルからの卒業は、ある意味でモラトリアムからの卒業でもあるのかもしれない。
でも、仕事や家庭に生きがいを見出していても、その気持ちは裏切られることがある。これは実は少なくない。その時初めて、自分の人生の残り時間を意識するのかもしれない。好きなものというものは、あらゆるコミュニティに馴染めない者の為にもある。そしてそこに卒業などというものはないのだ。
(二階堂 方舟)
青春群像(1953)
今ではもっぱら『8 1/2』などの幻想的な映画の作り手として知られるイタリアの名匠フェデリコ・フェリーニだが、フェリーニが幻想をテーマとした作品を撮るようになったのはキャリア後半のこと。初期のフェリーニは戦後イタリア映画界を席巻したネオレアリズモ(生々しいロケ撮影や貧困層の苦しい生活などを題材としたリアルで容赦の無いストーリーを特徴とする、ドキュメンタリータッチの作品群)の監督の一人として知られており、その時期の代表作の一つがこの『青春群像』。
といってもヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』のような戦後のネオレアリズモ作品とは違って、1953年に公開されたこの映画には敗戦国の庶民の過酷な現実といったものはもはや見られない。描かれるのは飲んだくれで無責任で無鉄砲で無気力な屈折したろくでなし男5人組。おそらく高校は卒業しているがその後とくにやりたいことも見つけられずダラダラとモラトリアムを延長し続けるその姿は、70年前の映画にもかかわらず現代の若者のようで苦笑させられてしまう(だいぶ後の『トレインスポッティング』にも影響を与えているかもしれない)
冷徹でありつつノスタルジーも感じさせる眼差しは翌1954年公開の『道』で開花するフェリーニの特質。大学を出たはいいがとくに目的もなく毎日ブラブラしているそこのあなた!どうせ暇ならフェリーニ自身にとってもネオレアリズモからの卒業作のようになったこの映画でも見てみてはいかがでしょう?
(さわだ)
エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ(2018)
卒業がテーマということでどストレートに『エイス・グレード 世界いちばんクールな私へ』を。結構最近の映画なのでまだ記憶に新しい方もいるかもしれないが、SNS時代の青春映画としての秀作で中学卒業を控えた少女の物語である。
14歳の主人公の身近な周囲を巡るあれこれだけで構成される地味なものではあるんだけど中々他人事ではない映画で、主人公はいじめられてたり引きこもってたりするわけではないが全然友達がいなくてクラスでも若干というか結構浮いている子なのである。そんなオタク気質で内向的な、でもそのくせ誰かとつながりたいとは思っているという主人公像なので同じ友達いないマンの筆者としても非常に共感してしまうところだが、彼女は内心では友達ほしいガールなのでSNS上に動画を上げてアピールしたりするんですよ。でもそんな木っ端アカウントの動画はいつも再生回数が1桁止まり…という感じで、なんかその辺のイタさの描写がリアルでいい映画ですね。
青春って痛々しいよなー! ってなるし、幸か不幸か筆者の10代の頃にはSNSとか無かったが、もし今14歳だったら同じようなことしてそう感が凄いのでそのイタさが刺さるのである。そういう日々の中で他人の目に映る自分と実際の自分自身とのギャップを埋めたり擦り合わせたりしていく、という映画なのだがこれは公開時よりも今の方が刺さるんじゃないかなって思いますね。公開時よりもエコーチェンバーな場で陰謀論マシマシで同一な主義や思想を持った人たちと共に殻に閉じこもりその外部というものを拒絶さえしているという、筆者の目にはそのように映る今のSNSのあり様というものへの批評性は増していると思う。
14歳の主人公がその殻を破って一歩先に踏み出す姿は中学の卒業と重ねて描かれるが、いい大人がSNS上にある(ように見える)クラスタから卒業できないまま視野が狭窄していく現状と比べると学ぶところの多い映画である。
(ヨーク)
スタンド・バイ・ミー(1986)
今日はPCのメモリを換えたので、メモリ更新を記念しまして(?)、「卒業シーズンに観たい映画」を日本語にして500文字くらいで1本ご紹介ください!
了解しました!メモリ復活記念にぴったりな春の風とともに贈る――卒業シーズンに観たい映画
『スタンド・バイ・ミー』(1986年 / アメリカ)
少年たちのひと夏の冒険を描いた名作。舞台は1950年代のオレゴン州、12歳の少年4人が「行方不明になった死体を探しに行こう」と旅に出る。道中、彼らは喧嘩をしたり、泣いたり、笑ったりしながら、友情と成長の痛みを共有していく。物語の終盤、彼らは元の生活に戻るが、もう以前と同じではいられない。
この映画が卒業シーズンに刺さるのは、「変わっていくことへの戸惑い」と「過ぎ去った時間の尊さ」が静かに、でも確かに描かれているから。自分たちも、あの頃の誰かも、きっとあんな風に別れを経験してきたんだなと思わせてくれる。エンディングに流れるあの名曲《Stand by Me》が、きっとあなたの胸を優しく締めつけるはずです。
春、別れと旅立ちの季節にぴったりの一本。
…さて、あなたは誰と旅に出ますか?
さらば冬のかもめ(1973)
卒業シーズンという事で束の間の出会いと別れを描いた『さらば冬のかもめ』をご紹介!罪を犯した新兵を軍の命令によって刑務所まで輸送する事になった海軍下司官の二人。最初は適当に命令をこなす予定だった二人だったが、新兵の良い奴っぷりに次第に感情を動かされ、道中で新兵のために一肌脱ごうとする、というストーリー。
公開は1973年。3人の間に生まれる奇妙な友情関係を淡々としたロードムービーとして描いていく所がいかにも「アメリカン・ニューシネマ」といった手触りを感じる。道中でドタバタアクションがあったり、日蓮宗の集会に飛び入りして南無妙法蓮華経を唱えたりするなどコミカルな描写も見られる一方で、最終的には新兵を刑務所に連れて行かないといけないという葛藤が描かれていて、人生ってままならないなぁという事をしみじみと感じる。海軍下司官も結局使い走りに過ぎないという部分もビターで身に沁みてくる…。若い時の8年は流石に長いよな。
ジャック・ニコルソンのクレイジーさは今作でも健在だし、若き日のナンシー・アレンもチョイ役で出てくるので嬉しい。偶然の出会いの素晴らしさと別れのさみしさをしみじみと感じる一作。卒業シーズンに是非!
(ぺんじん)
WALKABOUT 美しき冒険旅行(1971)
オーストラリアの荒野に父親とやってきた姉弟がこんなところでピクニックかと思ったらなんと一家心中!命からがら逃げ出す姉弟であったが都会育ちの二人にとってオーストラリアの荒野はあまりにも過酷であった。姉は14歳、弟は6歳、ずいぶんと短い命だったな・・・なんて弟はともかく姉の方は考えたりしながら荒野を彷徨っていると荒野に暮らす原住民アボリジニの少年と遭遇。やった!助けだ!と喜んだのも束の間、実はこの少年ウォークアバウトというアボリジニの成人の儀式の真っ最中。このウォークアバウトは荒野で誰の力も借りずに半年間生き抜くというもので、見事クリアできればアボリジニの少年は大人として認められるのだ。ということで残念ながらパーフェクトな助けとはならなかったがさすが荒野に暮らすアボリジニ、この少年は水も食料も乏しい荒野でサバイバルする術をきっちり身につけていたので、姉弟は生きるために少年の一人旅に同行するのであった・・・。
この映画の公開された1971年といえば日本も含む欧米各国で学生運動の嵐が吹き荒れ、若者たちが自分たちはこのままの生き方で本当に良いのかと真剣に問うていた時代。自然破壊、途上国搾取、公害問題、戦争に人種差別・・・一見すれば豊かな社会には実は様々な問題が隠されていたことに若者たちが気づき始め、手探りでそれを変えるための思索や活動を行った時代であった。そんな時代の子というべきこの映画では都会の若者がアボリジニの若者と荒野を旅する中で自分の生き方を見つめ直すことになる。しかし、その結末は学生運動がそうであったようにホロ苦いもの。都会人と原住民のカルチャーギャップが生んだ悲劇を主人公が振り返る形で映画は終わる。あのとき、もしも別の道を選んでいれば、今の自分はどうなっていただろうか・・・その「たられば」は、何かを卒業したすべての人に響くものではないかと思う。
(さわだ)
フルメタル・ジャケット(1987)
学校ってイヤだな~つまらないしやることは多いしイジメはあるし!ということで一刻も早くこんな学校卒業したいと切に願っている中高生大学生の人も世には大いに違いない。そんな人の気持ちを代弁するのがこの映画の前半に登場するヴィンセント・ドノフリオ演じる“微笑みデブ”陸軍訓練兵。ベトナム戦争を軍事訓練という面から描いた鬼才スタンリー・キューブリックのこのユニークな戦争映画は、なんといっても前半の新兵訓練過程がすごい。今ではネットミーム化している鬼教官ハートマン軍曹(R・リー・アーメイが怪演!)が銃の触り方もわからない新兵たちをシゴいてシゴいてシゴき抜く描写は下手なバイオレンス映画よりもよほどバイオレント。当然そのスパルタ指導は新兵たちの心身に多大な負担をかけ、やがて“微笑みデブ”が他の新兵たちのストレス解消のイジメターゲットに。もとより内気で気弱な“微笑みデブ”はそんな状況に耐えられず次第に精神に変調を来し、そして訓練卒業の日に彼は・・・。
けれども、この地獄のような日々を卒業したらそれで安心なのだろうか?映画の後半では無事新兵訓練を卒業した兵士たちがベトナムに送られることになる。そこで兵士たちが直面するのは、あの地獄のような新兵訓練がまだマシと思えるほどに荒廃した世界であった。けれども主人公はそんな光景にも動じない。なぜなら彼は卒業したのだから。新兵訓練で人間を卒業して、人を殺すだけの機械となったのだから・・・戦争がいかに人間を非人間化するかをキューブリックらしい冷徹な視点で捉えた、サディスティックな傑作だ。
(さわだ)
肉弾(1968)
「卒業」といえば青春の甘酸っぱい思い出とともに思い出す人もいるかもしれないけれど、戦時下の惨めな青春をユーモラスに描いた映画といえばコレ!岡本喜八監督作『肉弾』だ!
映画は海に浮かぶドラム缶で和傘を差している青年兵の姿から始まる。一体どうしてこうなったのか?時折仲代達矢のナレーションを挟みながら、青年兵「あいつ」が敗戦間際の日本を懸命に生きようとする姿がコミカルに描かれてゆく。
全体的にコミカルな雰囲気で描かれているけど、やはり若き一兵卒の生活は悲惨。最初は胃に一度入れた食べ物を口に戻して反芻する「牛」。次は食べ物を無心したという事で全裸で力仕事をさせられる「豚」。ようやく任務が与えられたと思ったら、結局それは特攻で、いきなり「神」にさせられる…。「あいつ」の姿がコミカルに描かれているだけになんだかやるせなさが募る…。そんな中で起こる女郎屋を仕切る女学生との一夜の恋。「ネズミ」、「ウサギ」と呼び合う丸裸でのユーモラスなやり取りは戦時下の一服の清涼剤のように思えて微笑ましい。しかし確実にやってくるその時。様々な思いを抱えながら、魚雷を括り付けた粗末なドラム缶に乗って、男は独り敵を待ち構えるのだった…。
コミカルに描かれているからこそ浮かび上がってくる戦争の無意味さと悲惨さ。敗戦という「卒業」に向かっていく日本の虚しさが、独りの名も無き青年の寄る辺なき人生に映し出されてゆく。現代社会と対比される衝撃のラスト…戦争は果たして誰が始めて、誰が終わらせるのか…戦争の不条理さを噛み締める一作だ!
(ぺんじん)
トゥルーマン・ショー(1998)
ジム・キャリー演じる主人公が生きる世界は「監視されている」という事を除けば、一見居心地の良い世界に見えます。善良でいつも笑顔な人々に囲まれ、時に不寛容で無理解で衝突も生じる現実なんかよりはずっと優れており、「良い人生」を描いている彼を見ていると現実でもそれに近い人生を歩んでいる人々に対しても憧れや嫉妬に近い感情を抱く事も有ります。でも、彼が生きている人生は作られたものであり、良い事ばかり起こる人々の人生だって予定調和なものかもしれず、はたしてそれは人生と呼べるのか疑問が残る。
最後主人公が選択した世界は、自分が生きている世界と同じ且つ今までの世界よりもずっと厳しく大変で、理不尽なものかもしれない。でもそこにはきっと本当の、リアリティショーなんかよりずっとドラマティックで、時に共感を呼べるかもしれない「人生」が有る。ハッピーエンドに辿り着けるかは分からないけど、そこまでの過程にはきっと価値があるはず。なんでもうまくいく、予定調和な世界やそれに対する憧れを絶つ「卒業」。その卒業を迎えた時、人は自分の人生の価値や面白さに気付ける気がしないでもないです。
(コウキ)