【さわだきんたの映画観客鑑賞録】第6回 旧上野オークラの客と『ポンヌフの恋人』の客と日芸映画祭の客
映画評論家・加藤幹郎は『映画館と観客の文化史』において成人映画館で行われるいわゆるハッテン行為を映画館で生まれた新しいコミュニケーションの在り方として評価している。読んだのはもう10年近く前になるだろうが目から鱗だった。ハッテンという概念について抱くイメージが覆されただけではない。観客と映画ではなく観客と観客の関係も映画館には存在するという当たり前だが普段は意識しないことを意識させられたのだ。俺が今こうして映画館の観客の記憶を辿っているのもこの関係性の転回があればこそ。『映画館と観客の文化史』はおもしろい本なのでみなさんもぜひ読んでみて下さい。
さて観客と観客の関係といえば。最近のシネコンでは没入体験を追求するあまり観客が個人の世界に入り込んで他の観客は不快なノイズとして意識の外に追い出してしまいがちだが、映画館に長く通っていれば他の観客との友好的な交流というのもごく稀にはあるもので、大した話ではないのだがなにかとギスギスした世の中なのでその例を少し書こうと思う。映画館は一人で映画を観る場所じゃないよ、ということで(この言葉もマナー警察の啓発文句に転用されてしまうのだが)
上野の成人映画館・上野オークラ劇場は現在の場所に移転する前、他の成人映画館が大抵そうであったようにロビーでタバコが吸えた。応接室のようなソファーセットが受付前に置いてありそこにガラスの灰皿が用意されているわけである。今では考えられない話かもしれないが一昔前の成人映画館は場内でエロ映画を観ながらタバコを吸うオッサンなんか普通にいたので、それを考えれば上野オークラの喫煙設備は誠にお上品なのだった。それでも場内でタバコを吸ってるオッサンはいたけどね。
俺がここを初めて訪れたのは20代の前半でその頃はタバコを吸っていたから上映後だかにロビーで一服していた。すると人の良さそうな笑みを浮かべたオッサンが向かいに一人、なんとなく学者風の硬い表情のオッサンが俺の横に一人。三人でタバコを吸いながら自然と雑談が始まる。二階席はプロ(場内で客を取る女装の男娼)の指定席だからねと成人映画館教養を教わるなどする。この時はそれ以上の進展はなかったが、これ、ハッテンの誘いだったんだろうね。俺は美男とは到底言えないが若い男というのはそれだけでハッテン的な価値のあるものだろう。こっちはウブなのでそんなことにはまるで気付けず、今となればもったいなかったなぁと思う。俺ももうオッサンになっちゃったよ。
もったいなかった出会いはそれだけではない。新橋の二番館・新橋文化劇場では閉館が決まってからいつものB級C級映画ではなく往年の名作をサヨナラ興行として連日上映していた。その時にレオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』の上映回があったのだが、幕間にえらく狭苦しい休憩室兼喫煙室で一人タバコを吸っていると、こんな場末には似つかわしくないふわふわ系の学生と思しき女性がやってきて「よく来るんですか」とか「この映画いいですよね」とか話しかけてくる。できる限り平静な大人を装いつつも若い映画好きな女性と話す機会なんか普段はないので心中ドキドキである。話は続くも(弾む、とまでは言えない)やがてまた別の喫煙客が入ってきたので女性の方は狭すぎる喫煙所を出て行ってしまった。まぁ、『ポンヌフの恋人』を観て感極まっちゃったんじゃないすか。ポンヌフはフランス語で新しい橋の意。それを新橋で観る。思わず見ず知らずの誰かと感動を共有したくなっちゃうロマンティックな映画体験だったことだろう。あぁ、喫茶店ぐらい誘っておけばよかった!
一方、こちらはあまりもったいなくなかったが面白かった出会い。渋谷の代表的ミニシアター・ユーロスペースでは毎年日本大学芸術学部の学生達が主催する日芸映画祭をやっている。この映画祭は戦争とかジェンダーギャップとか何かひとつテーマを定めてそれに沿った十本程度の作品を一週間かけて上映していて、宗教がテーマだったその年に俺は『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』の社会学者・橋爪大三郎トークショー付きの回を観に行った。席に着くと隣に座ったおばさんがトークショーが始まるまでずーっと俺に話しかけてくる。おばさんが何を語ったかはあまり覚えていないが橋爪大三郎が何者か聞かれて(知らんで来てんのかい)宗教の概説本とかよく出してる人ですみたいに答えたのは覚えている。トークショーが始まるとおばさんさすがに話に集中するが集中しすぎて橋爪大三郎の一言一言にものすごい頷きまくっているのが横目に見えるし「そうそう!」とか「そうなんだ!」とか「知らなかった!」とか小声でひっきりなしに応答しているのが聞こえてくる。『大いなる沈黙へ』…とはまるで向かわないおしゃべりおばさんなのであった。
完全に余談になるがこの年の日芸映画祭でどうしても一言文句を言いたいことがあり、人生で初めて映画を観てのクレーム(おばさんの件ではなく別の映画の内容と宣伝の仕方について)を実行委員会に伝えることにしたのだが、なにせ人生で初めての映画を観てのクレームであるからこなれておらず、そもそも人と話すのも得意でないとあってオタク特有の小声で早口になってしまい、言っていることも支離滅裂とまでは言わなくとも要領を得ない。「うわ…」みたいな顔をする実行委員の日芸生たち。その表情に余計に焦る俺。なにか自分が変な人ではなくこれはあくまでも理性的かつ正当な抗議であることを伝える言葉が必要だと思った。その結果、口をついて出てきたのが「私は幸福の科学の映画をよく観るんですが!」。幸福の科学の信者がキリスト教の映画を観て抗議に来たと思われたことだろう。タイムマシンで一度だけ過去に戻れるとしたらあの時の俺を俺は黙らせる。