【底抜け映画再審理】第3回 被告:『GODZILLA』(1998)
さて今回は『GODZILLA』なのですが2014年にギャレス・エドワーズが撮った同名の作品ではなく1998年のローランド・エメリッヒによる『GODZILLA』通称『エメゴジ』です。
初めてハリウッドでゴジラが映画化されるということで話題になったのだがあんまり評判が芳しくなく(興収的にはヒットしたと思う)て、特に従来のゴジラファンから「こんなのゴジラじゃない!」という声が大きく寄せられる作品となった作品だ。その不評振りというのは2004年公開の『ゴジラ ファイナルウォーズ』内でジラ(エメゴジ版ゴジラにそっくりな怪獣)が秒殺されて「やっぱマグロ食ってるような奴はダメだな」とか言われる本編には全く不要なシーンがわざわざ挿入されたことからも窺える。いやそれはさすがに酷いだろ! 仮にも、というか本家本元の公式側である東宝作品内でそういうディスりをするなよ! と思うがまぁそれだけ『エメゴジ』は従来のゴジラファンには耐えがたいものであったのだろう。ゴジラがハリウッドで! という前評判が期待値を上げて客は多く入ったが出来はイマイチだという烙印を押されたという、このコラムで扱うに相応しい作品なのは間違いない。
ちなみに俺がこのコラムのお題として本作を選んだのは今年の夏(2022年)に『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』を観ながら本作のことを思い出したからで、その作中での恐竜の描き方が『エメゴジ』でのゴジラの描き方を思い起こさせたからなのだ。俺が書いたフィルマークスの『ジュラシック・ワールド』の感想から本作を思い起こさせた一部を自分で引用すると“何つーかまぁ一言で言えば恐竜を舐めてるんですよね。人類の科学力で恐竜をコントロールして殺人兵器にするなんて簡単なことだと思ってるんですよ。一応断っておくと俺個人としては人類がその科学力で恐竜を支配下に置くというようなお話は別にあってもいいとは思うんだけど、でもそこにある人間の独善性とかはちゃんと描けよとは思うわけですよ。”という箇所になる。
ここですよね。おそらく日米どころか世界中のゴジラファンの逆鱗に触れたポイントっていうのは「お前ゴジラを舐めてるだろ、あんなのただのティラノサウルスじゃねぇか、大体ゴジラがミサイルなんかでやられるはずないだろ!」っていう部分であろうと思われる。本作を語る上でよく言われる「モンスターパニック映画としては面白いけどゴジラ映画としてはダメダメ」というのも正にゴジラをちょっとデカいティラノサウルス程度の描写しかしていないことが不満の主要因であるからであろう。俺も先日本作を見直したが、本作のゴジラ像は確かに怪獣王とまで呼ばれ破壊を司るさながら神のような存在として描かれる日本版のゴジラとはかけ離れているとは思った。2014年版のいわゆる『ギャレゴジ』では従来の神としてのゴジラが描かれ、その後の『KOM』や『ゴジラVSコング』でもその路線が踏襲されているので『エメゴジ』はなかり異端な存在であると言えるだろう。
だが本当にエメリッヒはゴジラの解釈を間違えてスベってしまっただけなのだろうか。俺にはそうは思えないんですよね。ローランド・エメリッヒという監督は世間からは破壊王(奇しくもゴジラみたいな称号だ)などと呼ばれて中身はないがとにかく派手で景気のいい娯楽アクション映画を撮る監督だと思われているが、彼は一貫してアメリカという国を醒めた目で批判し続ける映画を撮っていると思うんですよ。みんな大好き『インディペンデンス・デイ』だってアメリカの暴力性を滑稽に描いているとも取れるし近年の『ミッドウェイ』でもアメリカに於ける英雄主義を冷たく描いていた。なのでエメリッヒのそういうアメリカに対する外部から(エメリッヒはドイツ出身である)の醒めた批評性を踏まえた上で本作を見ればこう言えるのではないだろうか。日本で生まれて愛されたゴジラという存在は人知の及ばぬ神のごとき存在なのだが、アメリカという国はそれをも乗り越えることのできる問題の一つとして矮小化してしまう、アメリカというのはそういう国なのだ、と。またはアメリカは原子力というパワーを完全に制御することができるのだと、そう信じ込んでいると。
20世紀の初頭から半ばにかけて世界の覇権を握るに至ったアメリカは傲慢にもゴジラでさえただの恐竜に貶めてしまうのだと、そういう意図が本作にはあるような気がするんですよね。その観点で見たら本作はとても面白いんですよ。筋書きとしてはゴジラがニューヨークに現れて米軍がそれをやっつけるだけの映画だが、よく見るとマンハッタンの高層ビル群を破壊しているのはゴジラよりも米軍が放ったミサイルの数々だったりする。戦場が海中に移ってもゴジラは好戦的な米軍から逃げるだけで、潜水艦Aから放たれた魚雷が潜水艦Bを破壊する描写があったりするんですよね。そこでは世界最強国家として君臨しているアメリカが自壊していく様が描かれるわけである。もちろん最終的には米軍がゴジラをやっつけるわけだがその過程は非常にアメリカを皮肉ったものになっている。映画のラストでゴジラが息を引き取るときに軍人も含めたニューヨーク市民が狂喜乱舞する中で主人公だけがしんみりと悲し気な表情を浮かべるのも、神を貶めたことに対する感情の表れなのだとしたら腑に落ちる。災害パニックものなんかでもアメリカの映画だと科学の力でそれを抑え込んだりするパターンがあるが、本作はそういうアメリカの傲慢さをゴジラという象徴的なキャラクターを使って透かし彫りにした映画なのではないかなと思ってしまうよ。もちろん人類の科学が自然を乗り越えるというのも希望ではあるしそういう映画もいいとは思いますが。
本作は1998年の映画なので当然ながら作中で何度もワールド・トレード・センターの二本のタワーが映るのだが、本作が公開された数年後にはその二本の塔は崩壊してしまっているのだと思うと何とも言えない気持ちになってしまう。
そのように本作はエメリッヒのアメリカ批評の文脈上で観れば十分に見どころのある映画だし、他ならぬゴジラという題材でそれを撮ったのだという意味も十分に理解できる映画であると思う。なので本作に対する、ゴジラとしてはイマイチだが単なるモンスターパニック映画としてなら面白い、という評から更に一歩踏み込んで映画を見ると、やはりゴジラであるからこそ価値のある作品なのだと言えるのではないだろうか。
以上から本作は『ゴジラ』シリーズ中の一本としても映画作家ローランド・エメリッヒを語る上での一本としても無視できない重要な作品であると思う。再審理終わり!