【博多ゾンビ紀行 第12回】新作前に大予習!世紀末ゾンビ映画『ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ』
どうもこんにちは、ハカタです
夏が終わり秋の涼しさがやってきた昨今。秋といえばスポーツの秋、読書の秋、ゾンビの秋。と言うことでいつもより雑な導入で今回紹介するのは『ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ』だ!
謎邦題に謎邦題がかけ合わさりいろんな意味でこの世の終わりみたいな邦題になっているが、これが良作ゾンビ映画である。
映画が始まるとまずゾンビ、世紀末系武装男、改造車、などなどインパクト大の絵面がゾロゾロ出てくる!
あらすじを説明すると、とある彗星によってなぜか人間どもがゾンビになる奇病が発生してしまい家族を失った主人公は唯一残った家族である妹を探していたが、そこでなぜかガソリンも燃えなくなり車が使えなくなってしまった!
そんなこんなでまたしも困っていたところに、なぜかゾンビの息や血が燃えることが判明!そこで可燃性ゾンビをガソリンに利用することにし、偶然出会った仲間たちと共に世紀末ゾンビ世界を爆走する!
・・・・いつもより“なぜか“が多い気がするが、そこら辺はテンポの良い編集でゴリ押すので問題はない
一方で主人公の妹は謎の組織の実験体にされており・・・そこで特殊能力モノ的な面白さも出てくるのでてんこ盛りだ!
このように一見トンデモな話なのだが、一方それを成り立たせる技術が素晴らしい映画である。
全体的に話のスピード感が凄まじく、主人公はゾンビに遭遇した瞬間に世界の危機を察知し即家にある武器(DIY用具)をかき集め臨戦体制に入る。ここまで臨戦体制に入るのが早い一般人がいるだろうか!個人的なことを言えばもっとジワジワ侵食する恐怖を描いてほしいと思ってしまうが、しかしこの尺稼ぎという言葉が辞書に存在しないかのようなテンポ感は素晴らしい。かなりマッッッッッタリしたテンポのZ級映画に苦しめられ傷ついた心に沁みる軽快さ。
さて、今作のゾンビは彗星が基だったり、可燃性だったり、ガソリン代わりに使えたり、と今までにないとは言わずとも(ガソリンは流石に無いと思う)なかなかに特殊な設定だ。
僕がよく考えるのはゾンビというものは想像以上に保守的な概念だということ。
架空の存在なのに、いやむしろ架空であるが故にルールに縛られてしまいがちで、少しでもはみ出せば「これはゾンビじゃない」と思われてしまいがちなのがゾンビだ。
サメが当たり前のように空を飛んだりタコと合体している横でゾンビが走るのはアリかナシかという議論が交わされたりしてりしているものなのだ。そんな状態で突飛な設定を納得させるのは想像以上に難しいことだと思う。
そんな中でこの映画は可燃ゾンビや特殊能力みたいな冷静に書いてみるとどういう理屈でそうなってるのかサッパリ分からない設定を手早い編集とスマートな見せ方で納得させている。これはかなり凄いことなのではないだろうか!
おそらく低予算ではあると思うのだがそれを全く感じさせない撮影、編集の技術は凄まじい。基本的に森の中やら閉所でワチャワチャしているだけなのだが、そこでのアクションの魅せ方がうまい。ものすごいカメラワークや長回しなどを駆使し全くロケーションの乏しさを感じさせない。ここが本当に素晴らしい。
この映画の特色を語るならやはりこの世紀末的世界観は外せないだろう。世紀末的武装人間×ゾンビというのはインパクト抜群だし面白いのだが、この映画の偉いところはその世界観をインパクト優先だけでなく、しっかりと筋道立てて作り上げているところにある。
至って普通の世界から映画が始まり、それがゾンビにより崩壊し、世紀末へとなる・・・その流れをしっかり描いている。手作り感がある装備が、この映画では世界観設定の補強となっているし、しっかり汚れているので安さがない。
むしろ他のゾンビ映画が軽装備すぎんだよ!こんぐらいゴテゴテなのが普通なの!という気持ちにすらなってくるのだ。
なぜ特定のジャンル、シリーズに惹かれるか、と言われれば世界観の魅力はかなり大きい要素であることは間違いない。そんな中で独自の魅力的な世界観を作り上げた今作は成功作と言えるだろう。
そんな今作と同じ世界観である続編『ゾンビ・サステナブル』が現在公開中である。
これは観に行くっきゃないよね。