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視力のお笑いシネマレンズ

【視力のお笑いシネマレンズ】第1回 松本人志監督作品の面白さ

松本人志さんの映画が好きなんですがもう長年監督をつとめなくなってしまっています。

ただ年月が経った事によりじわじわと当時の世間の評価に薄い世代が先入観なく観て楽しんでる人が増えてきてる感じがします。

古着屋シミーというYouTuberの方の松本映画評が面白かったです。

松ちゃん作品ってそういう風に観た方が絶対いいと思う。海外とかで熱狂的なファンが生まれるのもなんかわかる気がします。以前もTwitterで呟いたのですが「MVを流し観る感じ」の味わい方なんだと思う。電気グルーヴの『モノノケノダンス』のMVとかと面白さが近いと感じています。

 

なので「ダウンタウン松本人志」という先入観を捨てて観ないといけない。

 

そこで初めて「なんかよくわからん」って感想を抱けるんだと思う。そしてその「なんかよくわからん」が好きか嫌いかというとこから批評とか考察がスタートするような感じ。まぁそれが映画である必要があるのかと。でも僕は好き。

 

Vaporwaveとサンプリング大喜利

Vaporwaveという音楽ジャンルがあってその雰囲気というか面白さの種類が個人的に似てると感じています。不必要なループやスクリュード、サンプリングの大喜利性、データベース消費が行ききった世代に刺さる人がいるのもわかる。松ちゃん映画は早すぎたVaporwave感がある。

例えば、『大日本人』の設定土台である特撮ヒーローものそれ自体だけでなく、終盤一気にチープなスタジオセットを組んだコント世界に突入させるところや、『しんぼる』でのいろんなアイコニックなものが飛び出してくる白い空間から、そのまま世界の連鎖を掌る神的存在に至る描写への飛躍、『さや侍』での竹原ピストルの歌、『R100』で片桐はいりが捕食するとこ、などなど。

北野映画はこういう飛び方をあまりしない(『TAKESHIS’』や『監督・ばんざい!』でそこら辺の領域に取り掛かっていたとは思うけど、あれはどちらかと言えばカオスの手段で大喜利性はない)

ピース又吉の『火花』とかのオチも大喜利性はあれど哀愁や狂気の文学上の到達って感じ、

ちなみに松本監督と近いなぁと一番個人的に感じた芸人映画は永野の『MANRIKI』、最初からB級カルト映画狙いで面白かったです。

この唐突とも言える世界観や展開パターンそのもののズラし方、俯瞰視点になり過ぎず、かと言ってむしろ油断してたら身近な陳腐なものにそのメタ視点の照準があってしまうかのような、自我が乗り物酔いするみたいな感覚を松本人志は笑わせるテクニックとして駆使してきます。本人が時たま半ば自虐的に「サブカルになりたかった」と語るその発言の意図は、キービジュアルをニンテンドー64のアイコンにしてしまうVaporwave的なふざけて捻れた愛玩美意識に他ならないと感じているのです。

 

映画そのものとは別の視点ですが、このデータベース消費によるサンプリング大喜利的な感覚って今だとARuFa『ちょうどあいす』、わっきゃい『電車で隣に座った人に「こいつ何見てるんだ?」って困惑させるための動画』、梶本時代『Wii Fitトレーナーのコスプレ』、雨穴『おせちプリンセス』とかがそれらを持ち合わせててど真ん中で表現されてると思います。それに近い感性を松本人志という人は前時代で到達させてたのが凄い。逆にだから同世代に評価されにくいのかと。ただ基盤には確実になってる。

例えばバカリズムとかがダウンタウン直撃世代でそのVaporwave感覚的なものを表現体型に落とし込めてるサンプルのひとつとかだと思います。その他となるともちろん松本人志に影響を受けてる芸人さんは数多いますが、そのデータベース大喜利的な文脈の人はほとんど居ないんじゃないかなと感じます。

ピースの又吉さんとかそれを文学性にまで高めていたり、千鳥大吾さんとか演者性とかかなり洗練させていたりと、部分部分で更新はしていると思いますが、「面白さ」そのものの感覚の部分に関しては引き継がれつつもまだ進展してないと言えると思う。というか松本さん自体に「答え」がまだ求められてる。

なのでVISUALBUMとかが松本さんの最高傑作だと呼び声がいまだに高いと思うのですが、もちろんそうだとした上でただあれはやはり演者松本人志としての到達点なのではないでしょうか?Vaporwave的な面白さは散りばめられてるけどそれがメインじゃない感じ。『む゙ん』とかその感じの片鱗あるけど。

もっと言及すると、霜降り明星ってその流れだとどの立ち位置になるのか?と。確かに2人の感性はかなりデータベース感強めなのですが、それをベタ化させて演技的な型に発想とともにはめてる印象。VaporwaveというよりLo-fi Hip Hop。ダウンタウンというよりウッチャンナンチャンみがあると思う。

その世代の芸人さんで言えば鬼越トマホークとかの方が喧嘩芸の人選とかでナチュラルにデータベース大喜利してるような印象です。あとオードリー若林さんのツッコミフレーズとか。ただ松本さんほどの開拓ではなく継承という感じ。そして立ち位置的な文脈は2組ともビートたけし的なラインだと感じます。

なおかつある種の土着さみたいなものも必要な気がするので、もしかしたら芸人さんからではなく、例えばDJ社長とかぼく脳とかだいにぐるーぷとかあの辺の文化的要素から生まれてくる気もします。

 

松本映画の着地点

話を映画に戻します。なので、このVaporwave的なサンプリング大喜利性によって、それ自体で物語導線を引っ張っていく作品構造のために観客が連れて行かされる地点は常に、突飛、裏笑い、自己批評、考えオチ、問いかける終わり方、そういったものと隣り合わせでかなり肉薄していると思います。笑ってもいいし、感動してもいいし、考えさせられてもいいし、わからんかったって言ってもいい、そんなある種のこちら側に委ねられた形式での面白さを提示してくる作品性なわけですが、それは結局、不明瞭なオチであると捉えることも可能なのです。(個人的に『さや侍』のオチが、感動した的な解釈をされているのを目にする度に、自分とは違う感受性だなぁ…と思ってしまいます。僕はあのオチは笑ってしまいました。)

 

そもそも、オチとは何かを少し可視化してみようと思います。

その参考文献として、ピース又吉さんのYouTubeでの「走れメロス」解釈を見たときに思った事があって、

あの動画での説明自体では、実はメロスという主人公へのツッコミ視点も持ち込める二重構造的な捉え方を試みている作品である、という部分が考察のメインどころだというのを踏まえた上で、あの赤面オチってあんまり理解されてない気がしています。それこそ又吉さんの『火花』とかもそうですが、自意識オチなのだと思います。あれだけ自分の正義感に酔ってる主人公が自覚によって”恥じる”という客観視自体のひとりボケツッコミ。

だから最後だけ関係ない終わり方をしている「スカシ」でもないし、散々盛り上がっといて全裸かよ!っていう「ベタ」な終わり方でもないと思う。いや、そういうどっちにも取れるようにしてるとは思うけど、それらも含めた「自分の行為や心理や存在を俯瞰で見る」事そのものの気持ち悪さ的な感覚がオチ。

もっと言えばその”気持ち悪さ”すらも本質的には嫌がってないというか、単純に面白がってるんだと思います。この感覚をもっと突き詰めて行くと『トゥルーマンショー』みたいな壮大な離人症を描いてゆく事になると思うんだけど、それをこういう「あるある」的な因数に留めて、オチにしてるんだと思う。

「走れメロス」は日本を舞台にしてないから、非現実度合いが高い水準で構築された上で、主人公の思わず共感してしまう心理描写を紡いでいるので、むしろ最終的にあの細かいポイントに着地するためのオチに向かって逆算してる設計方法に感じる。付け加えた感があんまりない。「赤面」の話なんだと思う。

『トゥルーマンショー』とちょうど逆の作り方になってる。

 

「ふと我に返って恥ずかしい気持ちになる」ための壮大なフリ。

それが「走れメロス」なんだと思う。

で、松本人志の『R100』とかも漠然とこういう地点を目指してたオチなんじゃないかなと。

 

ただ、それがもっと物語全体の構造である設定部分の中に組み込まれてると思いますが。

あと、やっぱり『R100』の終わり方のほうが「笑わせようとしてるな」って感じます。

『火花』とか「走れメロス」とかよりも分かりやすいし、『トゥルーマンショー』とかよりも感動方向に行こうとしてない。

 

オチに「チャン♪チャン♪」感がある。

 

今後の松本映画への希望

これから松本映画が撮られるのかわかりませんが、勝手ながらもし撮ることがあればこういうものを描いてほしいなというイメージがあります。

ここ最近、THE SECONDという芸歴15年以上の漫才師の大会が開かれました。

松本さんはアンバサダーに就任しています。

お笑い界という範囲のものは、ほぼ100%に近い形で掌握し絶対的権威として君臨しその存在を今この瞬間も知らしめています。

 

また、

ちょっと前にオリエンタルラジオの中田敦彦さんが街録チャンネルで、松本さんの過去の行為に言及しているシーンがありました。

あの動画だけだと、中田さん視点のみからしか語られていないし、中核的な部分へのちゃんとした発言は避けてはいるし、この動画そのもののコンテンツとしての構造や立場とかも踏まえると、一概にどうとは言えない代物だとは思うのですが、

この人が松本人志をどう語るかという事には、何らかの見越せる空気感はあるのだと感じます。

というか、たぶん世代的に少し遡るとやはり出てくるのは、ナイナイや爆笑問題へ行使したであろう”空気誘導芸”の有無。

それが芸人さんたちの内側の空気感からうっすら漏れ伝わってくる感じがゾクゾクして面白いです。

 

今松本さんがワイドナショーから離れ、ガキ使大晦日をやらなくなり、探偵!ナイトスクープの局長として関西圏での磁場を強め、ドキュメンタルをAmazonプライムという場所で行っている、という大衆地点の勘所を探るなおしてる時期だと捉えられるようなある種の雲隠れムーヴの中で、

このTHE SECONDが開かれている

という事に、

神格化のアップデートを感じてしまう自分がいます。

テレビ前提世代じゃない層への震度を上げるために同世代的な磁力を一度高める運動をしようとしてるようにも見える。

そして、それはすなわち

松本人志は下の世代へのコントロール意識が強いのだとも感じます。

だからこそ、僕は松本さんに映画にもう一度挑戦してほしいです。

松本人志のTHE SECONDを見たいです。

 

“空気誘導芸”がふたつの側面を持つのなら、

「下の世代への吊し上げ」
「上の世代への噛み付き」

だと思います。

ビートたけしさんは今も映画を撮り続けています。

『首』という映画のプロモーションで
バイオレンス描写や性や生、死的なものへの表現を語っていました。

僕は、『R100』を見て
松本人志はそこら辺への、もっと現代的なグロい表現を大衆の共感含めて表現出来るんじゃないかなと、いち視聴者として勝手に期待してしまいます。

ビートたけしの直接的、組的な暴力性
とはまた違う

松本人志の間接的、学校的な暴力性

 

「いじめ」の面白さ

 

を描けるんじゃないかな、

とずっと感じています。

 

『さや侍』で野見さんに行使していた暴力
『しんぼる』で自意識と外界で捉えてた暴力
『大日本人』で最後獣が受けてたみすぼらしい暴力

そういうものを”空気誘導芸”で作品として昇華する事が出来るんじゃないのかな。

昔、一人ごっつという番組で披露していたマネキンとコントの『義父』のような、暗くて怖くて悲しくて気持ち悪い感じの面白ものを、松本映画に期待してしまう松本信者の1人の戯言です。

 

と、ここまで松本さんの映画について自分なりに書いてみたのですが、書いてみた事で余計にわからなくなってきてしまったような気がします。結局のところ映画そのものではなく「お笑い芸人」としての松本人志を見ているに過ぎないのではないか?そんな想いも同時に深まってしまいました。いやでも、この視線の先には、確かな笑いと共に、心の奥底を掴んで離さない魅力を、自分は感じたのだと思うのだけど…もしかして、それは、自分だけなのでしょうか…ぅ〜ん…この言語化出来ない、不明瞭な面白さ これは

 

さて、

なんでしょう?

 

 

 


この連載では「お笑い」というジャンルを中心に映画の感想について書いていこうと思います。

よろしくお願い致します。

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