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特集

【ミニミニ特集】ほんとうは怖い童話映画10選

今、「ほんとうは怖い童話映画」がアツい。あの『クマのプーさん』をスラッシャー映画に魔改造した衝撃作『プー あくまのくまさん』がいよいよ日本上陸、そして夏には『ミッドサマー』のアリ・アスターが激賞した恐怖のストップモーション・アニメ映画『オオカミの家』の公開も控えている。そうです、童話はコワいのです。ディズニーやアンデルセンの影響でやさしいほんわかイメージもある童話ですが元になった民話まで遡ってみれば残酷であったり不条理であったり読者を突き放すようなものも少なくありません。

というわけで!ほんとうは怖い童話映画を10本激選!!童話ということでご家族揃ってぜひご覧ください・・・くっくっくっ・・・。

マイ・リトル・ゴート

『PUI PUI モルカー』で知られる見里朝希によるグリム童話『オオカミと七匹の子ヤギ』のストップモーション・アニメ版。オオカミに食べられてしまった子ヤギを母ヤギがオオカミの腹を切って救出しついでに石を詰めて殺すという原作のエグさを薄めることなく児童虐待のメタファーとして再構築、エグさグロさの中に鋭い社会批判と弱者への寄り添いの眼差しを織り込んだ。『PUI PUI モルカー』にもちょいちょい社会風刺と見られる描写が出てきたりやたら臆病なモルカーが出てきたりしたのでこのへん見里朝希という人の作風なんだろう。

残酷と優しさと社会風刺の奇妙な混淆はディズニーとかによって安全に加工される前の童話の本領。被虐待児の痛みや傷を童話の形を借りて生々しく描き出す『マイ・リトル・ゴート』は童話の精神がすっかり失われた現代社会に対する痛烈なカウンターなのかもしれない。ランタイム11分の短編でサクッと見られるので『PUI PUI モルカー』にハマった人もハマらなかった人もぜひどうぞ。

さわだきんた

美女と野獣(1946)

『美女と野獣』といえば多くの人が思い浮かべるのはディズニーアニメ版(1991年)だと思うのだけど、今回紹介するのは1946年公開のフランス語実写版!ジャン・コクトー監督の本作は全編モノクロなのだけど、今観ても古びない大人の童話となっております。
とにかく最初から世知辛い!主人公は美しい末娘、その名もベル(フランス語で「美しい」の意味)なのだけど、映画の冒頭からその父親が運用する貿易船が行方不明になった事が示される。母親も意地悪な姉も貴族でございと召使たちに傍若無人に振舞っているのだけど、意外と輿が粗末だったりして、経済的には結構苦しい家庭だという事が分かる。兄も借金しているし、なんだか世知辛い…。

だからこそ野獣の絢爛豪華な豪邸との比較が活きてくるのだけど、野獣の屋敷もなんだか不気味。ディズニーアニメ版だとコミカルで可愛い置時計やキャンドルやティーカップたちが歌ったり踊ったりして楽しい感じなのだけど、1946年版はモロに人間。松明を持った白い腕が暗闇からヌッと出てきたり、石柱の中の人間がゆっくり動いたりと結構不気味な感じになっていて、かなりホーンテッドな印象が強い美術になっているのが素敵です。
そしてこの映画で何より怖いのが終盤の展開。単に呪いが解けただけでは無いというのがよくよく考えるとゾッとするところ…。屋敷ホラーとも言えるかも。
でも野獣がモフモフでメンタル弱弱なのがとってもキュートだからOK! ラストのアッというような映像も含めて、古典の素晴らしさを味わえる一作です。モフモフ最高~。

ぺんじん

哀愁しんでれら

『哀愁しんでれら』というタイトル通りにそのものズバリ、皆さまご存知のシンデレラを題にとった作品である。シンデレラといえばペロー版やグリム童話版が有名であろうが、物語の類型としてはいわゆる継子いじめ譚というもので日本にも『落窪物語』というものがある。ま、それは余談だがシンデレラ・ストーリーという慣用句があるほどに浸透した物語としては不遇な女性(大抵器量はいい)が継母などにいじめられ不遇をかこつものの救い主として王子様、あるいは貴公子的な存在が現れる、というのが大まかな筋立てだろうか。

タイトルに哀愁とあるように本作はそういった都合のいいシンデレラ・ストーリーを皮肉って「王子様としか知らない相手、または足のサイズしか知らない相手と結婚して大丈夫?」といったアンチ恋愛ドラマ的な展開を見せる。それだけでもブラックな恋愛モノとして成立はしそうだが、本作では恋愛至上主義でロマンチックラブ的幸福を冷笑的に描くだけではなくいわゆる「家」の構造における女性の立ち位置にまで踏み込んでいくのである。

最初にも書いたがシンデレラといえば継子いじめのお話で意地悪な継母が悪役なのは定番だが、本作ではそれはより皮肉的に形を変えて描かれる。本作で主人公を追い詰めるのは意地悪な継母などではなく家制度とそれがもたらす幻想としての妻や母親像なのだ。理想の良妻賢母を押し付けられる主人公が歪んでいく様は正にホラーといってもいいだろう。誰もが知っているサイキョーのキラキラストーリーであるシンデレラを題材としながら、家庭の中でその『家』の型に嵌められた存在へ自分が作り変えられていく様を描いた映画だと考えれば本作は中々の恐怖映画ではないだろうか。

ヨーク

血のお茶と紅い鎖

本業がなんなのか検索してもよくわからないカルトな映画監督/ストップモーション・アニメ・アーティスト/現代美術家?のクリスチアーネ・セガフスケによる2006年の作だが16ミリフィルムで撮影されているのか2006年とはとても思えないザラついた画質がまず怖い。なんでも制作期間13年とのことでその執念がまた怖い。一言で言うならばヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイ、初期デヴィッド・リンチの影響下にあると思われる台詞の無いシュールでダークなコマ撮りアニメ(一部実写)おとぎ話ということにはなるだろうが、まるで10歳の子供が家にあるモノをかき集めて作ったような「ワクワクさん」的ブリコラージュ造形と、スムーズさや生気を少しも感じさせない粗いコマ撮り撮影によってアート・ストップモーション・アニメの先賢たちとは明確に一線を画す。

その洗練とは無縁のただ自分の興味の赴くままに作り上げたような悪夢的世界はアートセラピーで制作されたアウトサイダー・アートに近く、ニコニコ笑うひまわりの花とかいう平和なオブジェさえもなにやら作家のオブセッションを感じさせて全然楽しい気分にならない。鳥さん一家とネズミさん一家が森で拾った女の人形を巡って諍いを起こすと書けば牧歌的に思えるストーリーも、現代人の住む日常世界のそれとはまったく異なるアルカイックな論理で貫かれているため捉えどころがなく、見ていて実に不安になる。最近は安易に「トラウマ映画」のレッテルが張られる作品が多いように思うが、これは正真正銘のトラウマ映画だろう。

ちなみにセガフスケ本人の風貌は初期ティム・バートンの世界から抜け出してきたゴス魔女みたいでめっちゃ好き。

さわだきんた

アリス(1988)

 ヤン・シュヴァンクマイエルによる映画化。ルイス・キャロルによる原作の、毒気ピンチョスな感じがよく出ている。原作の描写を逐一拾っているというわけではなく、アリスがウサギを追いかけて穴に落ちるシーンはエレベーターになっているとか、チェシャ猫を出さないとか、人形アニメーションを含む実写でやれる描写だけで『アリス』をやっているし、やれている。

 例えば部屋と岩場、岩場と机、机と坑道は本来、繋がっていないものだが、編集によって繋がっている。これは原作の、繋がっていない出来事が文章化されることで繋がる、あの感じであり、紛れもなく『アリス』だ、と思わせる。

 ところで『不思議の国のアリス』ってどう思われてるのだろうか。ビートルズやピンク・フロイドが好きな人は、なんとなく知っているはずだ。かつ、ディズニー版は見たことない、というケースも珍しくないだろう。タイトルしか知らないという人も多そうだ。『アリス』の持っている変さや不気味さや、書きっぷりの独特さは、知らない人は全く知らない。だから例として取り上げても何にもならないのでは、と思うことがある。

コーエン添田

センチメンタル・アドベンチャー

 イーストウッドの『オズ』。本作で彼は肺病やみのカントリーシンガーを演じている。心のないロボットや頭の良くないカカシや勇気のないライオンと並べたくなるキャラクターだ。その彼が砂嵐とともに現れるという冒頭部分が、あまりにも(ジュディ・ガーランドの出ている)『オズ』を思わせる。彼とともに少年が旅に出る。

 カントリーシンガーの男は「仕事」と称して鶏泥棒を働き、捕まってしまうが、少年が知恵を効かせる。彼は西部劇映画のポスターを目にし、馬を車に置き換え、脱獄を成功させる。それが成功するのは、この映画の「おとぎ話」性ゆえだろう。だから車の出てくる西部劇として見ることもできるし、魔法の出てこない『オズ』にもなる。

 本作は通過儀礼ものと言える。娼館のシーンなどは露骨だし、歌を生業にしながら肺病を患ってしまうこと、それを放ったらかして寿命を縮め続けること、そもそも治らない(として長らく知られていたのが結核だ)こと。それらの理屈じゃなさを少年に突きつけている。結局は行き当たりばったりでやっていくしかないことを知り、少年はギターと、道中で出会った少女とともに歩き始める。

コーエン添田

赤い斧(別題:ヴァージン・スローター)

アンデルセン童話『赤い靴』の影響か童話のイメージを借用する映画には「赤い〇〇」という題名のものがそれなりにある。これは『赤い斧』というわけなのだがタイトルからして不吉である。強盗を適当に繰り返して逃避行中の無軌道な若者二人組が辿り着いたのは森の中にポツンと佇む一軒家。ひとまずここにしけ込んで警察の目を逃れるかと浅はかに押し入ったのが運の尽き、砂嵐しか映らないテレビを無言で見つめ続ける謎の爺とやたら卵を割る謎の少女に若者二人組は精神的に追い詰められて殺されるというか半ば自滅するのであった。

とにかく最後まで観てもこの家族(なのか?)がなんだったのかよくわからないのがこの映画の恐ろしいところである。途中家の地下室から突然男が走り出てきてそのままどこかへと姿を消すシーンがあるのだがそれがなんなのかは一切説明されない。監禁されていたのだろうか?だとしたら一体何故。爺は一日中安楽椅子に座ってテレビの砂嵐を眺めているが一体そこに何を見ているのかはわからない。謎の少女はそんな爺を甲斐甲斐しく世話しているように見えるが本当にそれは世話なのだろうか?何かを訴えるような爺の無言の眼差しからすればもしかして拷問の可能性もあるのでは?だとしたら何故・・・というかこの徹頭徹尾無表情の不気味な少女は何者なんだ。すべては謎である。その謎が不条理な残酷民話を思わせて、奇妙な味わいのホラー?映画となっている。

さわだきんた

赤い家

そしてこちらは『赤い家』。人里離れた農場に引き取られやさしいお父さんお母さんに愛情いっぱいに育てられた孤児の少女は高校に入って健康優良健全男子に恋をする。早速結婚が視野に入ってしまった男子は夏休みになるとご両親に己をアピールすべく農場の手伝いのバイトにやってくるが、そこで将来のお義父さんからなにやら不穏な警告が。「あぶないから森に入ってはいけないよ」。しかし高校生男子とくれば好奇心と性欲で脳みそがいっぱい。少女を連れてちょっとだけ森に入ってみようとする男子だったが、そこには思いもよらない恐怖が待ち構えていた・・・。

父親役はノワール映画の名優エドワード・G・ロビンソン。大らかな父性と反面の爬虫類的冷酷さを併せ持つロビンソンが父親とくれば楽しい物語になどなるわきゃない。アメリカの原風景であり理想でもあるような農場と森のまとうメルヘンの皮がベロリと剥がれておぞましい現実が姿を現すラストはまるで『ツイン・ピークス』。ロビンソンの狂気の演技はデヴィッド・リンチも参考にしたんじゃないだろうか。一度アメリカのダークサイドに触れた人間はもう元の世界には戻れない。無垢なアメリカに早くも別れを告げる、1946年のメルヘン・ノワールだ。

さわだきんた

狩人の夜

星空に浮かぶリリアン・ギッシュが子供たちに聖書の話を聞かせる所から始まる、なんとも教育テレビっぽいオープニング。まさかここからフィルム・ノワール的な犯罪劇が始まるとは…。

刑務所で同室になった男が盗んだ金を自分のものにしようと、偽伝道師ハリー・パウエルが次々と罪を犯していくところはまさにフィルム・ノワールなのだけど、そこに二人の幼い兄妹の視点が入ることによって、『ヘンゼルとグレーテル』のようなどこか童話的な雰囲気がする不思議な映画になっている。特に幼い兄妹がハリー・パウエルに追われて逃げる所はストーリー的にはシリアスなのだけど、カエルや亀、そしてウサギが画面上にヒョコヒョコと出てくるシーンがあって、この童話的な映像とハラハラする追跡シーンのアンバランスさがなんとも堪らない!

映画創成期からの名女優リリアン・ギッシュと何とも憎らしい顔をしたロバート・ミッチャムの最終対決も、光と影の素晴らしい演出、そして耳から離れない“Leaning on the Everlasting Arms”のゆったりとした讃美歌のリズムもあって忘れられない名シーンとなっている。
ハッピーエンドでは終わらないビターなエンディングも胸に重く残る感じで素晴らしい。これぞ大人の童話!SNSで憂さ晴らしする前に全員『狩人の夜』を観ろ!

ぺんじん

チリンの鈴

児童アニメの名門であったサンリオが『アンパンマン』のやなせたかし原作を映像化した劇場用アニメシリーズの掉尾を飾る痛恨作。しんしんと雪の降り積もる無人の山々を背景に男声ボーカル・グループのブラザーズ・フォーが浪々と「チリンの~鈴を~今ではもう~訪ねる~人も~ない~・・・」などと歌い上げる葬送曲のような主題歌の時点で負のオーラがハンパないが、その後に続くのは首に大きな鈴をつけた可愛らしい子羊チリンがやさしいお母さん羊の見守る中のどかな放牧地を駆け回ったりまんまる毛玉形態になったりしながらモグラさんやチョウチョさんなどと戯れるあまりにも平和な光景、ディズニー映画もかくやの見事なアニメーションで描かれる天国の日々は大変に魅力的であり、それだけに「うわこれもう絶対めちゃくちゃん不幸になるじゃんこの後~!」とめっちゃ続きを観るのが嫌になる。

果たしてめちゃくちゃ不幸になるのであった。ある日のことウォーという名の一匹狼が小屋を襲撃し羊たちは為す術なく殺されゆくのみ、やがてウォーは去るがチリンのお母さんはチリンを守って死んでしまった。無力だからお母さんは殺されたんだ・・・ぼくは無力な羊でいたくなく!そう考えたチリンはウォー抹殺を胸に秘めてウォーに弟子入りする。それから3年、すっかり強く大きくなったチリンはウォーに羊小屋襲撃を指示されるが・・・。

ウォーとはやはりWARだろう。初期の『アンパンマン』にはやなせたかしの戦争体験が反映されていることはよく知られているが、これもまたやなせたかしの戦争寓話。抵抗手段を持たない悔しさ哀しさからウォーに弟子入りするチリンの姿には列強の仲間入りを果たすために帝国主義に舵を切った明治日本の姿が重なる。その結果は劇中の言葉を借りれば「羊でも狼でもない、なにかゾッとさせるもの」だった。羊であれば蹂躙され、狼になれば永遠の孤独と罪業を背負う・・・いや、じゃあどうすればいいんだよ!?やなせたかし改めやるせなかしの、恐ろしくも哀しいやるせな童話アニメの決定版である。

さわだきんた

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