MOVIE TOYBOX

映画で遊ぶ人のためのウェブZINE

博多ゾンビ紀行

【博多ゾンビ紀行】第19回 『君たちはどう生きるか』と『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』の共通点とは!?

2023年7月14日、とある2本の映画が映画が公開された。『君たちはどう生きるか』と『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド 4Kリマスター』である。両方ともやたらとタイトルが長く、書くのが大変である。

『君たちはどう生きるか』の制作が発表された時、日本は困惑に包まれた。「なんだこのタイトル?説教?」「あの怖い顔の表紙の漫画のやつ?」「なぜ今?」と様々な意見が渦巻いた。

1980年公開のゾンビ映画をリマスターした『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド 4Kリマスター』の制作が発表された時、日本は困惑に包まれた。「なんで???」「こんなの4Kにしてどうすんの????」「なぜ今?????」と様々な意見が渦巻いた。

とここまでいくつかの共通点がある両者だが、それだけでない共鳴するものが根底にあるのだ。それについて今記事では迫っていく。

当然『君たちはどう生きるか』と『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』のネタバレがあるので未見の方は注意していただきたい。

『君たちはどう生きるか』についてどういう話だったかをまず振り返ろう。この映画は難解と言われているし、観終わって困惑した人も多いようだが、ストーリー自体は簡単に説明できる。それは「世界に絶望していた少年がファンタジーを通して再起する」という話で、児童文学の定型の一つである行きて帰りし物語という形で行なっているのだ。

母は死に、父は戦争で金を稼ぎ、継母とは仲良くなれず、実家にいるばあちゃん達はなんか不気味・・・そんな主人公の絶望を映像で巧みに描きだすのが序盤のパートだ。それがファンタジー世界に行くことにより変わっていくというのが本筋だ。

では主人公はそこでどう変わっていくのか。彼は地下の世界で様々なものに出会っていく、それは若き頃の母やばあちゃんだったりインコだったりする。そのそれぞれに主人公のドラマとの関連やなんらかの隠喩を見出すことは可能だろう。しかし今回はとある一点に注目したい、それは死である。
今作は様々な死と生を彷彿とさせる要素が登場する。死人が敷衍する海から魚を釣り、それを捌いて殺し、わらわらという生物に分け与える。わらわらは人間として生まれるために空を飛び、ペリカンが生きるために食われて死ぬ。そしてわらわらを生かすためにペリカンは焼かれて死ぬ。そんなペリカンを主人公は弔ってやる・・・といった具合に死と生に関する事柄がどんどん描かれていく。

前述したストーリーの要約に当てはめて考えるならば、そうやって死に触れることにより主人公は再生していくということではないだろうか。この「死による再生」は『ハウルの動く城』でも描かれていたことである。ソフィは老いること(死に近づくこと)によって逆に活発になってゆく。『ハウル〜』に限らず死というのは後期の監督作でずっと描かれてきたモチーフである。
さらには過去の母との出会いを通して現実の死すらも克服してしまうのだ。

加えて言えばあの塔の中の世界は「フィクション」「創作物」というものの比喩であると言えるだろう。「大叔父が作った世界」という設定が頻繁に語られることからそれは読み取れる。ラストに青サギが主人公に語ったセリフはまさに人間と創作の関係性を的確に示したセリフである。
塔の世界の崩壊も、とある一人の人間が作った物語の死を描いているといえるだろう。

それにより彼は世界との向き合い方を、生き方を学んでいくのである。つまりは今作は、死を描いたフィクションを通して人間として再生していく話なのではないか。というのが僕の解釈である。

対して『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』の感想を述べていきたい。

こちらはだいぶ酷い映画だった。本当に酷かった・・・
名義上ではフルチ監督ということになっているが実質『ヘル〜』のブルーノ・マッティが監督したとされている『サンゲリア2』だが、せめてそのぐらいの面白さは欲しかった。

まず冒頭、何から身を守っているのかサッパリ分からない防護服にネズミが入って感染が広がるシーンくらいのガバガバさは日常茶飯事なので動じないが、その後の全然盛り上がらないテロのシーンがダラッダラと続いたあたりはもう完全に観ながら今日の昼飯はマックにしようかなということをずっと考えていた。そしてそのテロのシーンがストーリー的に大した意味のないシーンだと判明した時はもうこの映像は自分を苦しめるために作られた映像なのではないかという妄想が頭から離れなかったし。さらにその後のオッパイを露出させること以外に意味のない食人族のシーンではもう完全に鬱になってしまった。こんなことしていて良いのだろうか。

ゾンビのルールはガバガバで、シーンごとに力強く襲ってきたと思えばダラダラ全然襲ってこなかったりするしで緊迫感ゼロ。話の脈略も薄く、気分がだいぶマッタリしてくる。せめてゴアを楽しみたいところだが、それすらもあまりない・・・

家で数百円か見放題かのどっちかで大した金も手間もかけずに行くが、今回は灼熱サウナで汚い新宿までわざわざ足を運び1600円に電車代という訳で、時間の面でも金の面でも今回はかなりキツいものがあった。

この映画を観終わってマックを探して灼熱の新宿を彷徨っている時、僕はこう考えていた。

「本当に苦しい。こんな映画観るより他の映画を観た方が良かったんじゃないだろうか。というかそもそも映画なんか観てて良いのか?今ごろ二度と戻ることのない無い美しい時間を一生懸命に楽しんでいる若者たちなどもいるというのに・・・」
「鬱になってきた・・・これからの人生についてちゃんと考えた方がいいのかもしれない・・・生き方を改めよう・・・僕はどう生きるか・・・」
「ん・・・?待って・・・・?これ『君たちはどう生きるか』じゃん!!!!!!!」

そう、『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』は『君たちはどう生きるか』なのである!!!!!

『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』はゾンビ映画、ゾンビとはつまり死、そんな死に溢れたフィクションに触れることによって生き方を考えさせられ人間を再生させる。こりゃまさに『君たちはどう生きるか』と一緒の体験じゃないですか!脈略のないストーリーも「物語」性の死を表出していると言えるだろう。

我々はこういうゾンビ映画に対して0.5秒の頭部破壊映像などを楽しみにしながらつまらないパートを耐えている。
よくよく考えてみればなんと不健全な鑑賞姿勢だろう!しかし、それによる人間性の再生もあるのだ。それが両作の映画体験で示されているんじゃないだろうか?
そしてそれが何よりゾンビ映画において大事なことなのではないだろうか?と僕は考える。

だからさ・・・みんなも観に行こう?『ヘル・オブ・ザ・リビングデッド』・・・劇場の雰囲気もホラーとは思えないくらい朗らかだからさ。

後半は頻繁に無からゾンビが現れるのでその度に笑いが起きていたし、上から流れる血をどう見ても自分から浴びに行ってる所や車によっこいしょとゾンビが入ってくる所なども笑いが起きててね・・・
そういう珍妙な面白い場面がちらほらあるのは素直に良いところだったと思う。

他にいいところを言うとすれば、ゴア描写も数箇所ないわけではなかったし、昔の映画だからレトロな雰囲気も良かった。音楽も使い回しだけどカッコよかったし。
あと途中で少数民族に出会うパートは主人公一行とこの少数民族が絶対に同じフレームに入らないのでどうみても別撮りなのが分かるクオリティとなっているが、それゆえにこの民族の映像自体はマジっぽな〜と感じられて面白かった。低クオリティゆえの長所である。
こういうくだらないものにこそ、当時の映画体験というものが感じられる部分もある。ネットもない時代、こんなハズレがある地雷原を昔の人は歩いていたのだ。本当に大変だと思う。

7月30日現在新宿シネマカリテ、カリテファンタスティックコレクションにて上映中。残り上映は7/31(月)と8/6(日)の2回。行こう!!!!!

返信する

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

博多には行ったことがない パラッパラッパーで全ての感情を表すアカウント→ @goodbye_kitty3