【放言映画紹介 ウチだって社会派だぜ!!】第13回 ウチからのお怒りの手紙!トランスジェンダー「問題」×『俺は田舎のプレスリー』
2019年に国立お茶の水女子大がトランスジェンダー女性の受け入れを発表して以来、トランスジェンダー関連の話題は「論争」が絶えない。2023年だけでも、手術要件の違憲判決・角川の出版中止・性自認論文の査読コメント晒しなど、話題が尽きることがなかった。
今年も正月早々から釣り垢の「トランス女性にもナプキンが必要」というツイートに釣られて、災害時には身体女性だけにナプキンを配れ!と、真面目に怒っている人たちがいるのだから手に負えない。
今回はトランスジェンダー「問題」を考えるのにうってつけの、早すぎたクィア映画の良作をご紹介したい。満友敬司監督・山田洋次原案の『俺は田舎のプレスリー』(78)である。ドン・コスカレリの『プレスリーVSミイラ男』(02)と並ぶ、素晴らしいプレスリー映画であると言っておこう!
ちなみに作中にプレスリー要素は一切無い。(は?)
作品紹介
映画ナタリー 作品紹介ページより
青森県五所川原ののどかな風景を舞台に、リンゴ園で働く純情素朴青年の恋と、その兄の性転換をめぐる珍騒動を描いた喜劇。映画のヒントとなったのは吉幾三のヒット曲『俺はぜったい!プレスリー』。彼自身も純情少年の友人として、チョイ役で出演している。
リンゴ農園の次男である保は、村一番の秀才である兄・真美男の影に隠れて冴えない青春を過ごしている。真美男さえいればウチは安泰と言わんばかりの父、芝居狂いでボケ老人の祖父、真美男の婚約者で、保がひそかに思いを寄せる百合子、その他個性的な村人に囲まれて、肩身の狭い生活を送っていた。
ある日のこと、保は百合子から真美男の事について相談される。何でもフランス中に留学中の真美男から、全く手紙が来なくなったというのだ。新しい女でもできたのでは・・・と不安になる百合子。
そんな中、久々に真美男帰省の知らせが届く。久々に会った真美男はなんと・・・フランスで性転換手術を受け、カルーセル麻紀(!)になっていたのだ!?
以上が『俺は田舎のプレスリー』のあらすじである。
いや~面白そうな映画だな~!吉幾三の歌からよくこんな話思いついたな~!と言いたくなるが、しかしこの映画、正直言ってそんなに面白くはない!・・・てゆーか笑うような映画じゃない!良くも悪くも普通のいい映画なんである。
帰省した兄貴が女になっていた!って大ネタだって、冒頭のキャスト紹介で「真美男:カルーセル麻紀」って普通に出てるし、なんというか意外な展開で驚かせようという気が皆無なんである。
作中の真美男も『カルメン故郷に帰る』(51)のストリッパー二人組のように、閉鎖的な田舎の村に大騒動を巻き起こすわけでもなく、サッサとフランスに帰ってしまう。ドタバタ喜劇映画というよりも、ちょっと変わった青春失恋ものとして楽しむのが良いだろう。
まあゆーて松竹だし、こんなもんか・・・という感じである。
とはいえ2023年の観客からすると、そのつまらなさがクィア映画として誠実に感じられる態度である。同じ題材で鈴木則文とかが撮ったら、死ぬほど面白い映画になるだろう・・・しかしどうせチンポが付いてるとか付いてないとか、小便は立ってするとか座ってするとか、絶対そういう面白さになるに決まっている。
1978年の日本のレベルの低さを侮ってはならない!『俺は田舎のプレスリー』は普通、めっちゃ普通、普通だが・・・世の中は面白くない方が良いという映画もあるのだ。
真美男の変貌に驚く村人たちであったが、分校の教師・篠田(橋爪功)だけは変わらぬ態度で真美男に接する。彼女と一晩酒を酌み交わす篠田。外見こそ変わっているが、中身は変わらぬ優しい真美男のままであった。
篠田の「こんなド田舎にきみの居場所はない」という言葉に従い、真美男は母の墓参りを済ませてさっさとフランスに帰ってしまう。
真美男に振られ(そもそも最初から女性は守備範囲外だったらしい)、吹っ切れた百合子は東京にいる叔父の元に引っ越すことを決めた。彼女が五所川原を去ってしまう前に告白しようと意を決する保。
しかし百合子の決意は固く、彼女にとって保は「一人前の男」ではなく「可愛い弟」でしかないことを悟る。「東京に行ったら手紙を書くわね」と約束する百合子だが、真美男が百合子を忘れてしまったように、いずれ百合子も保を忘れてしまうのだろう。傷心の保と篠田は湖で泳ぐのであった。
保を演じるのは『太陽にほえろ!』のテキサス刑事でお馴染みの俳優・勝野洋なのだが、完璧なカントリー・ボーイぶりがはまり役である。いがぐり頭、太い眉毛、短い鼻・・・顔こそ帝国陸軍二等兵って感じの昭和顔だが、足が異様に長くてジーパン姿がとても良く似合う。
てか勝野洋って山田参助のゲイマンガのキャラにそっくりなんだよ!劇中でも裸デニムベスト&麦わら帽子というめちゃマニア受けしそうな格好をしてるし、ある意味カルーセル麻紀よりも全然濃い。
真美男が去り、百合子に振られ、男二人で海で失恋を慰め合うラストもめっちゃゲイっぽいゾ。『俺は田舎のプレスリー』はトランスジェンダー女性の出現によって、田舎のホモソーシャル空間がホモセクシュアル空間に変貌する映画だった訳である!
・・・唐突だが、なんか昔SF評論家の小谷真理がエヴァの批評で、渚カヲルに対してそんなことを書いていたような記憶があるな。カルーセル麻紀は平穏な田舎の幻影を終わらせる最後のシ者だった訳ですね!(一応エヴァを知らない人に説明しますが、渚カヲルというのは90年代オタク女子におけるジェームズ・ディーンのような存在のキャラクターだと思ってください。例えが古すぎるが!)
真美男を演じたカルーセル麻紀について語ろう。作中ではお風呂シーンや水着姿などを披露し、女優としてなかなか美しく撮られている。彼女は性転換手術が違法だった時代にモロッコに渡航して手術を受け、50年以上芸能界で活躍するパイオニアである。
2001年に大麻・コカイン所持の疑いで逮捕された際は(のち証拠不十分により不起訴)、戸籍上は男性だったため拘置所の男子房に入れられるという経験をした。下着の持ち込みが認められずトランクスを履かされたり、他の拘置者の前で裸になって身体測定を受けさせられるなど酷い待遇だったらしい。ちなみにスポーツ紙では「カルーセル麻紀、男泣き」との見出しで報じられた。笑ってはいけない。
SNSを中心とする最近のLGBTQ+運動は、芸能人よりも市井に生きるセクマイを取り上げようという傾向が強く、昭和~平成後期までのいわゆるオカマ・オネエタレント(便宜上この言葉を使う)は未だ再評価が進んでいない感がある。
加えて彼・彼女たちはサービス精神旺盛なので、率先してステロタイプを演じ、差別されたエピソードも笑いに変えてしまう。「怒るとおっさんに戻ります」とか「本名は賢示です」とか真面目なLGBTQ+アライの若者からすると、いささか反応に困るようなトークも多い。
しかし・・・あえて言わせてもらうが、カルーセル麻紀を見ずして日本のクィア映画を語ることなかれ!齢81にして今月(2024年1月現在)主演作『一月の声に歓びを刻め』も控えている。当事者が当事者を演じる映画がない!とお怒りの皆さん!ここにあります!大量にあるとは言いませんが、割と多いです!
えーここから悪口タイムになりますが、SNSにいるクィア映画ファンを名乗る人って現代の配信作品とか話題作とかはめっちゃ良く見てるけど、ちょっと古い映画になるとてんで弱いイメージがある。当事者が当事者がと言ってる人に限って、麻紀の映画を見ていない。これは嘆かわしい事態である。
この前もツイッターの自称クィア映画ファンで橋口亮輔を知らない人がいて卒倒しそうになった。寡作だし近年は悪い意味で話題になってたとはいえ、橋口亮輔だぞ?そいで、20年以上前の日本でこんな先進的な作品(ハッシュ)があっただなんて~っていうお決まりの褒め言葉ですよ。
言わせてもらうが、現代を過大評価しすぎなの!!トランプが大統領になって、プーチンがウクライナの子供をぶっ殺して、イスラエルがパレスチナ人を民族浄化してるような時代である。映画だって60年代からさほど進歩していないという事を認めるべきだろう。
産業としての構造には変化があったかもしれないが、作品単体で比べた時はどうだろう。アルドリッチの『甘い抱擁』(68)より「先進的」な映画がいくつあるのだろうか?
〇〇年前にこんな先進的な作品があっただなんてぇ~!!という、まずその幼稚なテンプレ誉め言葉をやめろ。さっき1978年のレベルの低さを舐めるなと書いたばかりですが!
でもそれを面と向かって指摘しちゃうと知識マウント、ペニスを押し付けるように女性に知識を押し付けるのをやめてください!と怒られてしまう。
(悪口のギア、一段階上がる)でもそういう人って、差別について勉強してください!って言う割に、本読めよってマウント臭い事を言われたら、本を読めるのは心身ともに健康な「特権」ですっ!押し付けないでください!って言いそうなんだよな~・・・。
・・・無敵かっ!グーにもチョキにも勝てるパーかっ!
まあポル・ポトを知らなかったり、ジョン・レノンの「インターナショナル」とか真面目に書いてる様な連中がいっちょ前の論客ヅラしてるのがTwitterなのだから、いちいちレベルの低さに怒っててもしょうがない。まあジャンルそのものに興味があるっていうよりも、それをダシにして仲間同士で語り合いたいってことなのだろう。
仲間が知ってる映画以外は見ない・興味もないんだから、プロフィール欄に虹のアイコンをいくら付けたところで本質的には保守なんだよ!こういう人たちは!(悪口のギア、もう一段階上げ!)
しかしですね、映画を見てないのも問題ですが、映画をクソ見ている連中のマッチョな本数主義もそれはそれで耐え難い。未公開映画を楽しむためには金銭・時間・英語力が必要である・・・すなわち、学歴・収入マウント!
連中が持っている、高々と積まれたクライテリオンのDVDの山が見える・・・あれこそ男根のメタファーだ。手術で取れない、心のチ●ポなのである!(は?)
クライテリオンのDVDを買うのは物質主義・英語帝国主義に対する加担だ!心のチンポを誇示するのをやめろ!ペニスを押し付けるように日本人に英語字幕を押し付けないで下さい!
いくら人と違う映画を見ても心のチン●が肥大するだけで、人としての器はどんどん小さくなっていくばかり。しかしクィア映画ファンのように映画を「運動」に従属させ、仲間同士の世界に閉じこもっていく方向も耐え難い。ウチの2024年の映画鑑賞目標は、脱運動・脱マウント!煩悩を振り払い、純粋に映画と向き合いたい、楽しみたいゾ。
(そもそもこの二つの派閥を対照のグループとして比較することは適当なのかという問題があるが、ウチの観測範囲の中では重ならない2大派閥のように見えるので取り上げた次第である)
心のチ●ポはただのチ●ポと違い、身体女性にも生えてる上にモロッコに行っても取れない厄介な一物である。自分と向き合い、心のチ●ポを去勢せよ。以上。