【映画観客鑑賞録】第10回 『マルリナの明日』の客
前回に続いて今回もまた映画館で発生した喧嘩の話。『マルリナの明日』というインドネシア映画の終映後の喧嘩について書こう。この映画はミニシアターの草分け渋谷ユーロスペースで上映されたもので、上映館からも察せられる通りどちらかといえばアート系の映画。ストーリー的にはノワールと呼ばれる形式を取っているが独特のオフビート感覚があり、奇抜な映画としてコアな映画マニアなら楽しめるとしてもジャンル映画的な面白味はあまりない。ユーロスペースというブランド力の高い劇場。加えてこの内容。シネコンと違って喧嘩をするような観客が集まるようには到底思えないのだが、その日はなぜか集まってしまったようだ。
「さっきからべちゃくちゃうるせぇんだよ!」終映と同時に柄の悪い男のガチギレ怒声が響く。見ればどうやらこの男、隣の席に座っている老婆を怒鳴りつけているらしい。怒鳴るのはよくないが確かにこの老婆はひっきりなしに何かを喋っていた。老婆の隣には中年女性が座っているからおそらく介護者か娘のたぐいだろう。老婆はきっと彼女に対して喋りかけていたに違いない。勝手な想像になるが老婆にとって映画鑑賞は年に何回かあるかないかの一大イベント。ちょっとぐらい盛り上がっておしゃべりをしてしまったところでなにも怒鳴りつけなくても…となおも狼狽して返答することにできない老婆にうるせぇうるせぇと怒鳴り続ける男を眺めていると予想外の出来事が起こった。老婆の隣、壁際の席に座っていた中年女性が怒鳴り男に恐れをなしたか椅子の背をまたいで一人で劇場を出て行ってしまったのである。え、老婆の連れじゃなかったの!? ということはあの老婆、一人でしゃべり続けていたのか…。
とはいえ怒鳴るのはやはりよくない。いくらなんでもその態度はどうなのかと怒鳴り男に一声かけようとおもむろに近づいたところで、怒鳴り男は怒りの収まらないまま劇場の外へ。「死ね!」怒鳴り男の捨て台詞がユーロスペースのロビーに響き渡る。怖い思いをしたであろう老婆は多少うつむき加減にはなっていたが案外何事もなかったかのように少し遅れてロビーに出る。一体なんだったんだ、怒鳴る方も怒鳴られる方も。なんでよりによってこんなマニアックなアート系映画を観に来たんだ。観に来てしかも喧嘩してるんだ。喧嘩というよりは一方的な恫喝だが。
『マルリナの明日』は見方次第では面白い映画だが一般的な意味で面白い映画とは言いがたい。邪推すれば、あの怒鳴り男が尋常ではなく苛立っていたのも、老婆が上映中一人で喋り続けていたのも、ぶっちゃけ『マルリナの明日』が思った以上につまらなかったからではないか? 面白い映画は人を狂わせるがつまらない映画もまた人を狂わせる。放浪のアナーキスト映画監督・渡辺文樹の上映会では、事前にいかがわしさ全開のポスターで告知されていたような内容とはまったく異なる文樹の思想宣伝映画が上映されたことから、観客のヤンキーが憤慨し場内で暴れたことがあったという。映画とはおそろしいものである。